ラヴェル:ステファヌ・マラルメの三つの詩(アプショウ)
アルバム『オレンジ色の唇の少女 The Girl with Orange Lips』より
ラヴェル:ステファヌ・マラルメの三つの詩
1.ため息
2.たわいない願い
3.丸い尻からひと跳びに現れ出た
ドーン・アプショウ(ソプラノ)
カーミト・ゾーリ、ロバート・ラインハート(ヴァイオリン)
サラ・クラーク(ヴィオラ)
エリック・バートレット(チェロ)
フェンウィック・スミス、ローラ・ギルバート(フルート)
トーマス・ヒル、ミッチェル・ワイス(クラリネット)
ランドル・ホジキンスン(ピアノ)
録音:1990年9月24−26日
Nonsuch, 0349707656
モーリス・ラヴェルの歌曲全集は、最近だとあちこちから出ていて、そのなかでローラン・ナウリらを迎えたナクソスのアルバムは全体的になかなかよい出来映えだと思うのですけれども、《ステファヌ・マラルメの三つの詩》が収録されていません。網羅性という点からはマイナスとはいえ、これはこれでそれなりに理屈があるような気がします。なぜなら、ラヴェルの《マラルメの詩》は、歌と伴奏という概念を基盤とする歌曲のフォーマットからは、ちょっとずれているからです。ここでは歌が詩を聴かせることよりも、ひとつの線としてアンサンブルに融け込んだり、あるいはベース・ラインを作ってアンサンブルを支えたり、個別の楽器と対話したり、といった動きに重きが置かれているように思えます。
かつてシャルル・ケクランはこの曲集について「耳で聴いて意味を理解できないテクストを歌曲に用いるべきではない」と述べたと言われます。
なんてテクストに曲を付ける方が悪い、というのですが、確かにこれはよく考えないと(考えても)何を言っているのか分からないですし、歌として聴かされても頭に入ってきませんよね。
しかし、おそらくここでのラヴェルにとって、詩を伝達することは最重要事項ではないのでしょう。詩から受けた印象や言葉の喚起力を手がかりに精細な綾織りを作って、その中に声を融け込ませることが、ラヴェルの目指したものなのではないでしょうか。
声に対してフルート2、クラリネット2、ピアノと弦楽四重奏という大がかりなアンサンブルを伴うこの歌曲集は、イゴール・ストラヴィンスキーが歌とアンサンブルのために書いた《三つの日本の抒情詩》に触発されて、《日本の抒情詩》と同じ編成で書かれたと言われます。(ストラヴィンスキーの歌曲集はアーノルト・シェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》に影響を受けたものですが、ラヴェル自身は《ピエロ》に興味を持ちながらも、《マラルメの詩》作曲時点では聴いたことがありませんでした。)ただ、フランス近代の歌曲では、エルネスト・ショーソンの《果てしない歌》やガブリエル・フォーレの《優しき歌》室内楽伴奏版のように、室内楽と歌というフォーマットがそれまでなかった訳ではないことも、忘れてはいけないでしょう。
さて、先に述べた作品の性格を受けて、この曲の録音でも、完全に伴奏と歌というかたちに落とし込んだものばかりではなく、室内楽的なバランスを考慮したものもいくつか存在します。その中で私がもっとも気に入っているのは、ドーン・アプショウの録音です。さまざまなコンセプト・アルバムをノンサッチからリリースしていた彼女の、たしか3枚目くらいのアルバムだったと記憶しています。ここでは、歌は完全にアンサンブルの一部となっており、ほかの楽器とよく融和し、ときに音量的に主導権を譲り渡すことも辞さない。第1曲「ため息」では、冒頭の弦のハーモニクスに対して歌がベース・ラインの役割を果たしたり、フルートと声を合わせて動いたりと、アンサンブルとしての動きがあらかさまに歌手に要求されますが、そのリアリゼーションとして、アプショウの歌は理想的です。第2曲以下も、歌そのものの自由度と、ときに合奏をリードし、ときに密に絡み合う室内楽的な姿勢とのバランスが見事。アプショウはフランス語がそんなに上手ではありませんけれども、ここではそもそも発音を表立たせずに器楽的なレガートを優先する歌い口をとっているので、発音の良し悪しは気になりません。(気になる方はアンネ・ゾフィー・フォン・オッターの録音をぜひ聴いてください。こちらも秀麗な歌唱を披露しています。)その細身な声質も作品の性格にふさわしいと思います。
併録はストラヴィンスキーの《バリモントの詩》と《日本の抒情詩》、ファリャの《プシケ》、モーリス・ドラージュの《四つのヒンドゥーの詩》、アール・キム(1920−1998)がアポリネールやランボーの詩を採り上げた《悲しみのまどろむところ》。キムの歌曲集も秀逸ですし、アルバム冒頭に置かれたファリャの《プシケ》がまた魅力的です。