今日の1枚:ストラヴィンスキー《プルチネルラ》ほか(ユロフスキ指揮)
ストラヴィンスキー:
バレエ音楽『プルチネルラ』全曲
交響曲ハ調
オード
トレニ:預言者エレミアの哀歌
変奏曲(オルダス・ハクスリー追悼)
レクィエム・カンティクルス
LPO, LPO0127
ヴラディーミル・ユロフスキ指揮ロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、合唱団
アンハラッド・リドン(メゾ・ソプラノ)
サム・ファーネス(テノール)
マシュー・ローズ(バス)
エリザベス・アサートン(ソプラノ)
マリア・オストルコヴァ(メゾ・ソプラノ)
ジョエル・ウィリアムズ(テノール)
テオドール・プラット(バリトン)
ジョシュア・ブルーム(バス)
マキシム・ミハイロフ(バス)
録音時期:2020年12月、2018年4, 11, 12月
2018年にロンドンで開かれた「ストラヴィンスキー・フェスティヴァル」のライヴ音源を中心とする、ユロフスキ&ロンドン・フィルによるストラヴィンスキー録音集の第3巻です。このシリーズは有名曲と演奏頻度の多くない作品とを各巻それぞれにとり混ぜたカプリングで楽しませてくれましたが、当盤はそうしたプログラムの面ではもっとも過激と言っていいでしょう。メインこそ《プルチネルラ》全曲とオーソドックスなところを押さえているものの、併録に交響曲ハ調はともかく、最晩年の傑作といわれながらなかなか演奏機会に恵まれない《レクイエム・カンティクルズ》と、オーソン・ウェルズの映画のために書いた楽譜をサルヴェージして第二次大戦中に書かれた《オード》、友人であった作家オルダス・ハクスリー追悼と銘打った、最後の純管弦楽曲である《変奏曲》、そして、ストラヴィンスキーの大規模作品中、間違いなくもっとも演奏頻度の低く、録音も滅多に行われない《トレニ》を収めて、これ以上ないくらいに意欲的な内容となっているのです。
その《トレニ》をまず採り上げましょう。《カンティクム・サクルム》やバレエ音楽《アゴン》において部分的に十二音技法を採用したストラヴィンスキーが、1958年に初めて全面的に十二音技法を用いて書き上げたのがこの《トレニ:預言者エレミアの哀歌》です。「トレニ」とはギリシャ語で「哀歌」の意味です。エルンスト・クルシェネクの無伴奏合唱曲《預言者エレミアの哀歌》の影響を受けて書かれたというこの作品は、第二次大戦後に彼が多くの時間を過ごしたヴェネチアで初演されました。その後パリでも作曲者自身の指揮で採り上げられましたが、練習不足・力量不足の演奏家たち(と、下稽古を仰せつかりながらも十分な準備を怠ったピエール・ブーレーズ)のせいでお披露目は大失敗に終わり、ストラヴィンスキーをして「二度とパリでは指揮をしない」と激怒させたといいます。以後正規録音は数えるほどしかなく、近年ではフィリップ・ヘレヴェッヘがやはり《レクイエム・カンティクルズ》と併録したものが唯一だったのではないでしょうか。
この作品の評価が決して高いものではなく、またなかなか演奏されないのにはいくつかの理由があると考えられるでしょう。まずだいいちに、ストラヴィンスキーの十二音技法は、音列を採用しながらも調性感を排除せず、むしろことさらに調性的な動きに傾いているために、「正統な」十二音音楽を称揚する立場からは批判されたことが挙げられます。その上で独唱陣、合唱陣の楽譜が対位法的な動きを多用していて、演奏が非常に困難であり、かつ全編を通じて響きの薄い箇所が多いにもかかわらず、管弦楽の編成が比較的大きいことも、演奏会からこの曲を遠ざける要因と言えるでしょう。
また、《トレニ》の編成にはフリューゲルホルン独奏やサリュソフォーンといった特殊楽器も要求されます。19世紀半ばのフランスで開発されたサリュソフォーンは、金属製の管を持つダブルリード楽器で、特にコントラバス・サリュソフォーンはフランス語圏ではコントラファゴットに代わる楽器として重用され、現在一般にサリュソフォーンと言えばコントラバス・サリュソフォーンを指します。しかし20世紀初頭にヘッケル式のコントラファゴットがフランスでも用いられるようになると、コントラファゴットよりも力強く、豊かな響きを持つとされながらも、急速にオーケストラから駆逐されていきました。フリューゲルホルンはブラス・バンドが盛んな国・土地ならば入手するのに苦労はありませんが、サリュソフォーンは現在ではほとんど見かけることのない楽器と言っていいと思います。もちろん、こうした譜面はコントラファゴットで演奏すればよいのですが(じっさいにそうしていると覚しき録音もあります)、この曲が書かれた50年代に既に廃っていたこの楽器をストラヴィンスキーがことさらに指定したことを考えると、コントラファゴットで済ましてしまうのはちょっともったいない気もします。
さて、その《トレニ》ですが、私としては過去の録音をいくつか聞いてどうにもピンと来なかった曲なのですが、ここでのユロフスキの演奏には唸らされました。目まぐるしく変化し続ける変拍子を鮮やかにさばいているとか、声楽陣が非常によくさらっていて、確信を持って歌っているとか、そういった点ももちろんポイント高いのですが、何よりこの演奏は、管弦楽の響きの面白さを実に丁寧に聴かせてくれている。そうして、この曲においては、音色というものが本質的な役割を果たしていることを如実に分からせてくれるのです。
この曲の管弦楽は、通常の編成に加えて先ほど言及したサリュソフォーンやバス・クラリネット、チューバなど、低音楽器が重用されていて、管弦楽に参加するピアノ共々、低音域に独特の色彩が施されています。それは一聴、1930年の《詩篇交響曲》や1944−48年の《ミサ曲》での管楽器重視の響きが醸す、アルカイックなサウンドの延長にあるようにも感じられますが、それらと同列に論じるには、響きが多様に過ぎる。特にサリュソフォーンの、唸るような迫力ある響きは、それだけで実に雄弁です。(ただし、この演奏が実際にサリュソフォーンを使っているのかは、ライナーノーツなどからは不明です。ひょっとしたらコントラファゴットにPAを付けているのかもしれませんが、かつては吹奏楽にも用いられていた楽器ですので、伝統的に吹奏楽の盛んな英国ならば、サリュソフォーンくらいどこかで見つけてくるのも難しくないかもしれません。)独唱や重唱に重なってオブリガートとして大活躍するフリューゲルホルンも含めて、剥き出しの独奏や同属楽器とのアンサンブルで使われていく管楽器陣が醸すサウンドは、他の誰にも作ることのできない、個性的な管弦楽法をここで提示しているように思えます。そのことを、ユロフスキはオーケストラから鮮烈な色彩を引き出して、聴き手に教えてくれます。
このアルバムでもう一つ、画期的な演奏だと思えるのは《レクイエム・カンティクルズ》です。おそらくは《トレニ》の延長線上にあるこの作品は、通常の「死者のためのミサ曲」に使われる典礼文から、続唱「怒りの日」を中心に抜粋したテクストに音楽を施したものです。管弦楽は弦楽器とピアノ、チェレスタを含む打楽器、ホルン、トランペット、トロンボーンといった金管楽器群に、木管はフルートがアルト・フルートを含めて4人、バスーンがふたりと、非常にアンバランスな編成になっています。特にフルート4人は全編を通じてアンサンブルとして、全体の響きを決める重要な役割を担っていく。声楽陣はふたりの独唱と合唱からなりますが、シュプレヒゲザング的な部分もあったり、あるいは「リベラ・メ」ではホモフォニックな歌に対してテクストを早口で朗読する別動隊が出たりと、さまざまな意匠が凝らしてある。ここでのユロフスキは、合奏のエッジを厳しく磨き上げた上で、音色の変化と音の迫力、旋律の持つ表情の変化を克明に彫琢していきます。それも、どこか一点を誇張することなく、全体に非常にバランスよい響きを作りつつ進めていくので、浅薄な印象を与えることがありません。ライヴ録音ゆえに楽譜を見ながら聞くと些細な瑕はあるのですが、音列の動きだけに関心があるという向きでなければ気になったりはしないでしょう。
他の演奏に触れるスペースがすっかりなくなってしまいましたが、もちろんどれも力演揃いです。ユロフスキはストラヴィンスキーの音楽に対峙するとき、どんな題材を扱っても滲み出てくるストラヴィンスキーらしさを大切にしているように思います。《プルチネルラ》にしても、イタリア的な軽やかさや流麗さよりも響きの異化効果に焦点をあてている。それにこの人の持つ優れたリズム感が相まって、ざらついた手触りと心地よい流動感とを合わせ持つ不思議な快演を繰り広げて楽しませてくれます。他の曲もみな印象的な演奏で、ユロフスキ&ロンドン・フィルによるストラヴィンスキー録音集の中では最も聴き応えのあるものとなりました。