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偏愛の1曲:ベンジャミン・ブリテン《夜想曲》

ベンジャミン・ブリテン:夜想曲
Warner Classics, 2564608223
アラン・クレイトン(テノール)
ニコラス・コロン指揮オーロラ管弦楽団
2014年11月

 北の大地ではベンジャミン・ブリテンの名作《セレナード》が演奏会で採り上げられ、たいへんな好評を博したようです。今日は「偏愛の1曲」として、私が長年愛聴している、同じブリテンによる歌曲《夜想曲》を採り上げたいと思います。
 テノール独唱とホルン独奏、弦楽による《セレナード》は1943年の作品です。序奏と後奏に無伴奏のホルン独奏(整えられた音律ではなく、自然音階律で演奏することが要求されており、ちょっと聴きには調子外れに聞こえます)を伴う、6曲の歌曲からなる歌曲集となっています。(ブリテンの死後、集に収められなかった7曲目の歌曲「今や深紅の花びらは眠り」が発見され、近年の録音ではしばしば追録されています。)テクストは15世紀から19世紀にかけてのウィリアム・ブレイクやアルフレッド・テニスンといった巨匠から無名の詩人まで、さまざまな詩人が日没から真夜中までの夜の情景を歌った詩を採り上げており、《セレナード(小夜曲)》のタイトルはそのことに由来します。この歌曲集は伝説的なホルン奏者であったデニス・ブレインの演奏に衝撃を受けたブリテンが、公私にわたるパートナーであったピーター・ピアーズとブレインとの共演を念頭に書き上げたのでした。そのためにホルン・パートも非常に演奏効果が高く、ブリテンを代表する名作のひとつとして評価され、演奏・録音機会に恵まれており、実際の演奏会でお聴きになった方も多いことでしょう。
 それから15年後、1958年に《夜想曲》は書かれました。テーマはやはり「夜」であり、「眠り」であり、「夢」です。ブリテンは生涯にわたって「夜についての夢想」というテーマを好んで採り上げ続けており、「夜想曲」をタイトルに含む作品もこの作品を含めて7曲ほどあります。弦楽合奏と独奏楽器、それにテノール独唱という図式は《セレナード》と似ていますが、こんどは序奏・後奏はなく、パーシー・シェリーの「詩人の唇の上で私は眠った」をテノールが歌い出して始まります。さらに、この第1曲は弦楽合奏のみで伴奏されるけれど、以後は各曲ごとに異なる独奏(バスーン、ハープ、ホルン、ティンパニ、コールアングレ、フルートとクラリネットの二重奏)がオブリガートとして参加し、シェークスピアによる終曲「我が目は閉じるときこそよくものを見る」ではそれら全楽器が参加して、印象的なクライマックスが築かれます。そして最も大きな違いは、独立した歌曲が連続する連作歌曲集である《セレナード》に対し、《夜想曲》は全体が切れ目なくひとつに続く一個の長大な作品として構成されていることでしょう。作者も時代も異なる詩を連ねながら、ここでブリテンは「夜」や「眠り」をめぐる思索の一貫した積み重ね際立たせていくのです。
 私がこの曲を初めて聴いたのは、パリに留学していた1991年のことです。アンサンブル・オルケストラル・ド・パリ(現パリ室内管弦楽団)の演奏会で、テノールはロバート・ティアー、指揮はアルミン・ジョルダンでした。(ジョルダンは自ら得意のレパートリーを積極的に録音するという機会に恵まれませんでしたが、ブリテンは間違いなく彼にとって重要な作曲家のひとりだったと思います。)私は、最初の弦楽合奏のみによる序奏を来た瞬間に、この曲のとりことなってしまいました。心臓の鼓動を象徴すると言われるその音形、2対1のリズムに2度音程の不協和音が軋むような響きをもたらすその音形の連続の、なんと官能的なことか。この音形は第1曲の間、ひたすらに独唱にまとわりつきます。作曲者の吐息を耳元で聴くようなその生々しさに、私は強い衝撃を受けたのでした。その感想は、歌を宛て書きしたピアーズがブリテンの恋人であったことから来る先入観に引きずられたものであったかもしれません。しかし、音楽からあれほどの肉感を感じたことが後にも先にもなかったことだけは確かです。
 もちろん、この曲の聴きどころはそこだけではありません。各曲ごとに人を変えるオブリガートの表現の豊かさ、ときに擬音を挿む歌が聴かせる夜の深さ、それらは少なくとも私にとっては、淡い夢想が薄明と闇の間を往き来する《セレナード》より、深く心に刺さるものと言っていいと思います。
 録音の数は《セレナード》よりわずかに少ないくらい。ブリテンが宛て書きしたピアーズもブリテンの指揮の下ステレオ録音(デッカ)を作っていますが、堂々とした歌いぶりとは言え、年齢的な問題なのか細かい音の精度が今ひとつで、不満が残るものでした。最近の録音では、表現の細やかさ、精妙さで迫るイアン・ボストリッジ(ワーナー)やマーク・パドモア(ハルモニア・ムンディ)もよいのですが、個人的には艶やかで肉厚な声で幅広い表現を聴かせるアラン・クレイトンの独唱がいちばんピンときます。ディスク(他にアデス編曲のクープラン《謎の障壁》やブレット・ディーンの《田園交響曲》、リゲティの100のメトロノームのための《ポエム・サンフォニーク》、レノン&マッカートニーの《ブラックバード》などを収めた、その名も「不眠」という不思議なアルバムです)はCDでは入手困難なようなのです。


Aurora Orchestra : Insomnia

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