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【小説】烏有へお還り 第28話

   第28話

「お母さん、まだ家に戻ってないみたい」
 スマホの画面をタップすると、柚果はベッドに横たわる弟に声をかけた。さっき看護師に連れられて検査から戻ったが、結果がわかるのは明日だという。

『ちょっと探してみるから、もしそっちに連絡があったら教えて』
 スマホに送られてきた父からのメッセージに、

『わたしも探す』
 柚果が返信する。外は雪が降り続いている。こんな寒い中、母がどこにいるのかと思うと、いても立ってもいられない。

『いや、お前はそこで、大翔に付き添ってて』
 既読がついてから少し間が空いた後、メッセージとスタンプが続いた。
『お願い』の可愛らしい絵柄に、返信しかけた指が止まる。

 柚果は小さく息をつくと、様子を窺うようにじっとこちらを見ている弟に顔を向けた。心配そうに眉を寄せている。

「ねえ、大翔。お母さん、どんな様子だったの」
 母と最後に会ったのは弟だ。けれども、力なく首を振る様子を見て、それ以上尋ねるのを諦めた。覚えていなくても仕方がない。

 胸がざわざわする。嫌な予感がした。
 あれほどぶつかり合ってきたにも関わらず、思い浮かぶ母の顔は笑っている。一体いつの記憶だろう。最近は、母の笑顔など見ることがない。それなのに、怒っている顔を思い出す方が難しかった。

 秀玄彫り体験のことが浮かぶ。あの時、久しぶりに家族四人で出かけた。意地を張っていたけれど、本当は楽しかった。帰りに焼肉を食べた時は、父も母も笑顔だったし、弟も美味しそうに肉をほお張っていた。

 あれが最後の家族の思い出になるのかもしれない。そんな考えが浮かび、慌てて打ち消す。

 ノックの音がした。扉に目をやると、細く開いた隙間からさな恵が顔を覗かせた。

「さな恵先生!」
 嬉しくなって駆け寄ると、

「柚果ちゃん」
 さな恵が両腕を広げて柚果を抱きとめた。ベッドで半身を起こした弟に顔を向けると、

「大翔くん……」
 と言って微笑んだ。

「すみません……」
 弟がうなだれる。さな恵が首を振った。腕の中の柚果に目をやり、背中をぽんぽんと優しく叩く。

「あの、さな恵先生」
 柚果が顔を上げた。少し迷ってから、

「申し訳ないんですけど、少しだけ大翔についていてくれませんか」
 そう言って、弟に顔を向けた。さな恵が不思議そうな顔になる。

「どうしたの」
 母の行方がわからないこと、連絡が取れないことを話すと、さな恵が眉を曇らせた。

「いいよ、お姉ちゃん。僕は一人でも大丈夫だから」
 身を乗り出した弟に、さな恵が手のひらを向ける。柚果の肩を抱き、

「ちょっと待って。ねえ、柚果ちゃん。気持ちはわかるけど」
 落ち着かせるように、そっと椅子へ座らせた。

「こんな時だからこそ、ここでお父さんの連絡を待った方がいいと思う。もしこれで柚果ちゃんにまでなにかあったら、お父さん困っちゃうよ」
 さな恵がそう言って、もう一度柚果の背中をぽんぽんと叩いた。その温かさに、不安がわずかに和らいでいく。

「わかりました……」
 さな恵の言う通りだと感じた。自分がやみくもに動いても、父の気がかりを増やすだけだ。

 柚果はふと顔を上げた。さっき聞いた弟の話が頭に浮かぶ。

「あの、さな恵先生。生涯学習会館の中にフリースクールがあるの、ご存じですか」

 柚果の問いに、さな恵がわずかに目を瞠った。一瞬だけ眉を曇らせたが、

「ええ、知ってるけど、どうしたの」
 と、目元を緩ませる。

「あの、そこにいる『吉川さん』って、ひょっとして先生の知り合いですか」
 弟が相談をした相手なら、さな恵ともつながっているのかもしれない。根拠のないひらめきだった。しかしさな恵は怯えたように顔を引きつらせる。

「さな恵先生……?」
 口元を覆ったさな恵の指が震えている。それを見ているうちに、柚果の肌にぞわりと寒気が走った。

「ねえ、大翔……その『吉川さん』とは、どこで知り合ったの……?」

 弟の部屋から聞こえた独りごと───。
 雨の日に、公園の東屋にいた弟の姿───。
 今さらになって、言い知れない違和感が押し寄せる。

 弟は柚果の問いに応えず、うつろな目を宙にさまよわせた。その時、さな恵が鞄からスマホを取り出した。長くスクロールしてから、

「その人って、この中にいる?」
 弟にスマホを向けた。画面には一枚の写真が映し出されている。

 柚果が受け取り、弟に差し出した。映っているのは、三角巾とエプロン姿でポーズをとる人たちだ。出店や幟なども見える。なんらかのイベントのようだ。

 弟が写真をピンチアウトした。柚果も覗き込む。大勢の顔の中にさな恵を見つけた。今よりも少し若い。

「この人です」
 弟が一人の人物に指をさした。

「まさか……そんな……」
 さな恵が青い顔になる。ふっと目を閉じ、ふらりと身体が揺れた。

「さな恵先生!」
 柚果が慌てて支えた。さな恵が一瞬で意識を取り戻し、手で頭を抱える。

「ごめんなさい、大丈夫」
 そう言って、浅い呼吸を繰り返していたさな恵がふうっと息を吐き出した。

「この人は……吉川さんは……」
 ぞわりと寒気が走る。さな恵を支えながら、柚果は振り返った。弟はさな恵の反応に驚く様子もなく、じっと黙っている。

「十年前に、屋上から飛び降りた女の子の下敷きになって、亡くなってるの」

 柚果が息を止めた。さな恵を支える手に力を込める。怖くて、弟の顔を見ることができなかった。

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