【短編小説】逆ナンのすゝめ 第6話
第6話
家に入ると、ちはるはまず茶の間の大きな仏壇の前に座り、線香をあげた。
「主人なの」
お盆を手にした沙都子さんが俺の耳に囁く。そうか、旦那さんを亡くされているのか。まだ若いのにな。
ちはると共にダイニングテーブルにつくと、沙都子さんが紅茶の入ったカップを俺たちの前に置いた。
「どうぞ」
中央に置かれた皿の上には、まだほんのり湯気が上がっているケーキが乗っていた。いい匂い。沙都子さんが切り分ける。
「すっげーウマい! これ、沙都子さんが作ったんですか? マジで?」
一口食べるなり叫んだ俺に、
「デコレーションもない、焼きっぱなしのカントリーケーキだけどね。わたしはこの方が好きで」
沙都子さんがそう言って遠慮がちにほほ笑んだ。
「いや、めっちゃウマいですよ。え、ひょっとしてお店とか出してます?」
俺の言葉に、沙都子さんはくすりと笑うと、
「ありがとう。お世辞でも嬉しいわ」
「そんなんじゃないっすよ。俺、生まれてから一度もお世辞とか言ったことないし」
沙都子さんはこらえきれなくなったように笑い出した。
「ホントですって。こう見えて俺、味にはうるさいんですよ。赤ん坊の時から言ってましたからね。『あれ? 母乳の味、ちょっと変えた?』って」
「もー海斗くんってホントに面白いわね。ちはるちゃん」
目尻の涙を拭いながら、女性がちはるに向かって言った。ちはるは少し恥ずかしそうに身を縮こませている。横目でわずかにこっちを睨んだ。ちょっとやりすぎたか。
「結婚とか、もう考えてるの?」
沙都子さんがちはるに向かって尋ねた。紅茶のカップを口につけたまま、ちはるが固まる。
「いやー、それはまだこれからですね。でも、彼女とは真剣に付き合ってますから、いずれはそのこともちゃんとしようと思っています」
俺の口から、すらすらとでまかせが出てくる。ちはるはカップを置くと、引きつった笑顔で頷いた。
「そう……うれしいな」
沙都子さんが目尻を下げた。
「もちろん結婚式にはぜひ来てください!」
やべ、ちょっと調子に乗りすぎたかな、と思った瞬間、
「か、海斗さん」
慌てたようにちはるが叫んだ。
ちはるに初めて名前を呼ばれたことで、俺はびっくりして言葉を失ってしまった。ちはるの方も恥ずかしそうに両手で顔を覆っている。
俺は柄にもなく耳まで赤くなっていくのを感じた。そんな俺たちを見て、沙都子さんが笑い出す。
「ゴメンなさいね、わたしは結婚式には出られるかどうかちょっとわからない。来月からロンドンに行くの」
えっ、と小さな叫び声が隣から聞こえた。どうやらちはるにも初耳だったらしい。
「フラワーアレンジメントの仕事でね。しばらくあっちに住むの」
沙都子さんがそう言って、ちはるの手の甲に自分の手を重ね、ぽんぽんと叩いた。
「ごめんね。でもちはるちゃんのことはずっと応援しているから」
ちはるが唇を噛みしめ、じっとうつむいた。暗くなった雰囲気を変えようと、俺は大きな声を出した。
「すごいっすねー! ロンドンですか。かっこいい!」
「ありがとう。結構忙しくなりそうなの。でも、やりがいあるし、頼りにされるとうれしいから」
沙都子さんは照れたように笑うと、
「そういうわけで、異国の空から二人を祝福しているわ」
と言って、椅子に座り直して背筋を伸ばした。
「お幸せにね。二人とも、すごくお似合いよ」