
【小説】烏有へお還り 第35話
第35話
『由利香ちゃん、本当にそれでいいの?』
その声に目をやった。笑みを消した吉川が、じっと母と柚果を見ている。
『柚果ちゃん、だめだよ。由利香ちゃんのこと、これ以上苦しめないであげて』
「吉川さん」
柚果の背に当てていた手を離し、さな恵がフェンス越しに吉川に向き直った。
「もう、やめて下さい」
さな恵の言葉に、吉川は悲しそうな顔で首を振った。
『さな恵ちゃん。あなただって、わたしと同じでしょう』
柚果はさな恵の横顔を見つめた。さな恵はなにも言わず、じっと吉川を見ている。
『これまで、あなたはどれだけの子を救えたの』
その言葉に、さな恵は痛みを堪えるように眉を寄せた。
『どれだけの悩みを解決してあげたの』
柚果の頭に、志穂の顔が浮かんだ。それから、さっき聞いた『自宅のお風呂場で亡くなった』子の話を思い出す。
『自分のしている仕事にはなんの意味もない。そのことに、気づいてるんじゃないの』
まるで心の内を読んでいるかのように、吉川の言葉がさな恵を蝕んでいく。
「わたしは」
眉を寄せたまま、さな恵が口を開いた。
「わたしには、誰かを救ったり、悩みを解決することなんてできません」
吉川が頷いた。苦しそうなさな恵をいたわるように微笑む。
「けれども、そんな大それたことは望んでいません」
さな恵は静かに言うと、顔を上げた。吉川に真っ直ぐ顔を向ける。
「ただ、カウンセラールームにやってくる子たちのことをもっと知りたい、話を聞きたいと思っているだけです」
柚果の脳裏に、カウンセラールームでの記憶が蘇る。
『これ、こないだ買ったの』
と言って見せた新しいペンケースに、
『ああ、気になるって言ってたやつだよね』
さな恵が微笑む。以前話したことを覚えていてくれて本当に嬉しかった。
とりとめのない雑談で、柚果の居場所を作ってくれた。
悩みごとを相談しなくても、不安を打ち明けなくてもいい。カウンセラールームは、ただ話をするために行っていいところ。さな恵が作ってくれた場所。
自分の話に耳を傾けてもらえる。日常過ぎて、当たり前すぎて、気づかないほどの優しさをもらった。
大切なのは、たったそれだけのこと。
吉川の姿が歪む。輪郭が薄れたような気がした。
『それじゃあ、またね』
吉川が屋上の縁へ向かい、後ろ足で進んでいく。降りしきる雪と重なり、姿がよく見えない。
「吉川さん、お願い! もう誰も連れて行かないで!」
さな恵が叫んだ。吉川は小さく笑うと、
『わたしは、呼ばれたら行くだけ』
と言って微笑む。その途端、強い風が吹いた。柚果とさな恵が目を瞑る。
もう一度目を開けると、吉川の姿は消えていた。
『よかったね、柚果ちゃん』
声が聞こえた気がした。柚果は顔を上げた。
「志穂ちゃん!」
空に向かって叫んだ。初めて苗字ではなく名前で呼んだ。
「志穂ちゃん、助けてくれてありがとう!」
もっと早くそうすればよかった。生きている時に、名前を呼べばよかった。
雪が降りてくる。真っ白で、羽のようで、触れたら溶けてしまう、優しくて繊細な志穂の心とよく似ていた。