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【短編小説】ニシヘヒガシヘ~夜行バスに乗って~第5話
第5話
03:00 バスの中
バスは静かに走り続けている。時計は3時を指していて、人が一日の中で一番眠くなる時間帯だ。
帳面駅を出発してからずっと静かだったバスの中が、今は人の寝息や鼾でかえって賑やかなのが面白い。
運転席に目をやる。ここからじゃよく見えないけれど、大丈夫かしらね。あたしでよかったら話し相手になるけれど。どうせちっとも眠れないし。
真ん中の列のシートからは、どちらの窓も遠い。フロントガラスも前の席が邪魔でよく見えない。それでも、目は無意識に動くものを追いかける。
空調のせいかもしれない。なんだか喉が渇いた。ふと、ドリンクホルダーにペットボトルが入っているのが目に入る。
さっき、サービスエリアからバスに戻った時のことだ。ぼんやりしていて、段差に引っかかってつんのめった。
「あっ、すみません」
とっさに受け止めてくれたのは、最初のサービスエリアでバスを降りる時に見た、黒い不思議な帽子をかぶった背の高い男性だった。
「大丈夫ですか」
男性はあたしの手を取り、真っ直ぐに立たせてくれた。
「大丈夫です。ごめんなさい」
慌てて手を引っ込めると、男性は穏やかに微笑んで、ポケットから小ぶりのペットボトル型の缶コーヒーを取り出した。
「すみません、よかったらこれ、もらってもらえませんか」
え?
困惑するあたしに、男性は苦笑いしながら、
「実は、ブラックのつもりが間違えて加糖を買ってしまったんです。私は甘いのが苦手で。けれども、捨てるのも勿体なくて」
そう言ってボトルを差し出す。思わず手に取ると、
「ありがとう。それでは」
男性は後ろの方の席へ戻っていった。
「知らない人からものをもらっちゃいけません」
長女にも長男にも、そう言って躾けたけれど。これはどうしよう。
男性には、不審なところはなかった。それどころか、紳士って感じ。
矯めつ眇めつボトルを入念に調べたが、特におかしなところはなかった。未開封のようだし、どこかに小さな穴が開いているということもない。まさか注射器で毒物を混入したなんてこともなさそうだ。
そもそも、躓いて男性に倒れ込んだのはあたしだし、彼はたまたまポケットに入れっぱなしになっていた、処分に困っていた飲み物をくれただけ。なにもおかしなところはない。
キャップを回した。カリカリっと音がして蓋が開く。間違いなく未開封だ。
おそるおそる口をつけてみた。ほんのり暖かくて、甘いコーヒー。特におかしな味はしない。そうよね。親切で下さったのに、疑って申し訳なかったな。
さっきのサービスエリアでは買いそびれたし、飲み物の一本すら手元にないのは心もとない。男性のおかげで助かった。
もう一度、窓の外を眺める。今夜、家を出る前のことがよみがえってきた。
あの「かわいそう」以来ずっと眠れない夜が続いて、気持ちがイライラしていたのだと思う。
食事の後、義母は自分の部屋に戻り、いつもならすぐに風呂に向かうはずの夫は、疲れているのか腰が重そうだった。
洗い物をしていたら、つけっぱなしのテレビから旅番組が流れてきた。
「いいなー、温泉」
思わず呟いた。けれども、夫はまるで聞こえなかったかのようになにも返事をしない。
「ね、温泉だって。良くない?」
無反応の夫に少しだけイラっとして、無視できないように強めに言った。
「そうだな」
それでも夫は気のない相槌を打つだけだった。わざと聞き流そうとしているのだと、かちんときた。
「行きたいな。ずっと旅行なんてしてないもん」
最後に行ったのはいつだろう。子供たちが大きくなってからは、長女と長男が代わる代わる、部活だテストだと忙しくて、家族旅行なんてほとんどなかった。
「ね、二人で行こうよ。たまにはいいじゃん。お義母さんだってさ、一晩くらいなら大丈夫だよ。瑞樹だっているんだし」
長男はあまり当てにならないけれど、いないよりはましだろう。
「メシはどうすんだよ」
「そんなの、あたしが作り置きしておくから、それを温めて食べてもらえばいいじゃない」
か弱い年寄りって言ったって、小さな子供じゃないんだ。なにもできないわけじゃない。
「いっそのこと、スーパーでお弁当でも買って食べてねってしてもいいよね。だって買い物くらい行けるはずだし」
もはや意地になっていた。夫は渋い顔をしている。
「風呂は」
「一日くらい入らなくても大丈夫よ。どうせどこにも出かけないんだから」
言いながら、自分がとんでもなく意地悪な人になっていくのがわかった。
同居が始まって半年。これまで文句も言わず、粛々とやってきたのに、全部自分で台無しにしている。
「ね、いいじゃん。だって、同居ってストレス溜まるよ。たまにはリフレッシュしたっていいじゃない!」
耳の遠い義母に、声を張り上げて何度もかけないといけない。ゴミの分別を覚えてくれず、集めてからあたしがやり直さないといけない。テレビの音量が大きすぎてうるさい。玄関で靴を履くとき、靴下のまま三和土に下りるのが不衛生で嫌だ。
耳だけでなく目も悪くなっている。おかずをこぼしても気づかない。義母の茶碗に残った飯粒を水で流すたび、食べ物を粗末にするなと躾けられた実家の親の顔が浮かぶ。
「ストレス溜めさせて悪いと思ってるよ」
夫がため息交じりに言った。
「別に、謝ってほしいとか言ってない!」
面倒くさそうな言い方に、ますます頭に血が上る。
「なんで? ダメなの? 一泊くらいいいじゃない!」
まるで駄々っ子だ。自分で自分が止められない。
「今は行けないから、待っててって言ってるの!」
突然夫が大きな声を出した。
なにあんたがキレてんの? はあ? と怒鳴り返した。こんな生活、待ってたって良くなるわけないじゃん。ますます悪くなるだけじゃん!
「待ってたらどうなるの。いつまで待てばいいの!?」
「母さんが死ぬまでだよ!」
夫の言葉に、それまでの熱が冷えた。お互いに継げる言葉が見当たらず、長くなればなるほど沈黙が気まずかった。
「風呂入ってくる」
夫が部屋を出ていく。あたしは唇を噛みしめた。
『母さんが死ぬまでだよ!』
そんなこと言わないでよ。
『母さんが死ぬまでだよ!』
義母が亡くなったら、あんた、絶対泣くじゃない。
『母さんが死んだら、これの比じゃないな』
義父が亡くなった時、あんた、最後まであたしの前では泣かないで、挙句にそんなこと言ったよね。
ひどいな、って笑った。お義父さん、今ごろ天国で怒ってるよ、って。
でもわかる。夫にとって、義母がどれだけ大切な存在か知ってる。
明るくてしっかり者で、頼りにならない義父の代わりに、仕事も家事も一人でこなして、息子二人を一人前に育てた人だった。
それでいて気さくで、
『うちの息子たちはいいお嫁さんもらって幸せだわ!』
いつも笑顔でそう言ってくれた。結婚してから、一度だって意地悪されたことなんてない。あたし、お義母さんのこと好きだった。
だからあたし、長男の嫁として、いざという時はちゃんと義母をお世話して、最期まで看取ろうって覚悟もしていた。その時はきっとうまくやっていけるって、自信さえあった。
あんなに元気で明るい人だったのに、年を重ねて、色んなことができなくなっちゃったんだよね。
それなのに───。
涙がこぼれた。嗚咽にならないように、誰かの寝息に合わせて細く息を吐きだす。
あたし、ここではないどこかへ行きたかったんじゃなかった。
本当は、自分じゃない誰かになりたかったのかもしれない。