【小説】もうひとりの転校生 第8話
第8話
「パパ、おそいねえ」
四歳になる長女が、テーブルの下で足をぶらぶらさせた。
ダイニングの椅子は、この春に幼稚園に入ったばかりの娘にはちょっと高い。長女は口を尖らせながら、テーブルと自分の隙間から爪先を覗き込む。
「お料理冷めちゃうね」
妻が娘の隣で頬杖をついた。テーブルの上には既に夕飯の支度ができている。
すぐそばのソファで捕まり立ちをしていた一歳の息子が、ぐずぐずと泣き始めた。
「あー、陸くんごめんね。お腹空いちゃったかな」
「ママ、先に食べちゃおうよ」
空腹の娘が大人びた口調で言った。
「そうね、食べちゃおうか」
妻が料理を娘の皿に取り分け始める。餃子、ハンバーグ、ぶり大根。おいおい、俺の大好物ばかりじゃないか。どうしたんだ。
俺はぐうぐう鳴り続ける腹を抱えて、大きな声で呼びかけた。
お~い! こっちこっち! 俺はここにいるぞ!
けれども、誰も気づかない。目の前にはローランドゴリラを閉じ込めておくような分厚いガラスの壁があって、俺の声はどうやっても家族に届かないのだ。
こっちだよ! こっち! 見てくれよ!
拳で壁をガンガン叩く。だがびくともしない。
「いただきまーす」
「はーい、めしあがれ」
妻と娘が両手を合わせた。息子も真似して、小さな指先を合わせる。
妻がハンバーグを小さく切って、ふうふうと冷ましてから息子の口に運んだ。
「おいちい?」
上機嫌の息子が声をあげて両手をバンザイする。
「あー、陸くん、よかったねぇ」
一方で妻も食事を始めた。娘も夢中になって食べている。その時、息子がもぐもぐと口を動かしながら俺の方を向いた。
陸! ほら、パパだよ!
俺が手を振ると、息子がにっこり笑った。よしよし、気づいたぞ。
陸! おい、ママに知らせてくれよ。パパがここにいるって!
両手を大きく振りながら飛び上がる。その様子がおかしいのか、息子が声を立てて笑い出した。
「陸くん、ご機嫌ねぇ」
妻が息子の口元に次の匙を運ぶ。息子は嬉しそうに口を開け、もうこっちを見ようとしない。
おーい、陸! 食べてないで、ママに伝えてくれよ!
どれだけ叫んでも、もう息子はこちらを見ようとしない。
くそ、仕方がないか。
諦めかけた時だった。チャイムの音が鳴った。娘が玄関へ飛んでいく。
「パパ、おかえり~」
娘を伴ってダイニングに現れたのは、俺の顔をした同期だ。
「ただいま。ごめんごめん、遅くなって」
「お帰りなさい。ごめんね、先に食べ始めちゃった」
「いいよ。こっちこそ連絡しなくてごめん」
同期が上着を脱ぎ、食卓へ着く。妻が茶碗にご飯を盛って差し出した。
バカ、それは俺じゃないんだよ!
俺は必死に叫びながら、さっきよりも強く壁を叩いた。手が痛い。
「ねえ、パパ。麗ねえ、きょう、ようちえんで、なわとび二十回できたんだよ」
「へえ、すごいな」
「つぎは、うしろとびのれんしゅうするんだ」
「よし、今度一緒に練習するか」
おい、麗! それはパパじゃないんだよ! 騙されるな!
陸、お前、もう一度こっち向け! 本物のパパはこっちだ!
「ビール呑む?」
妻が冷蔵庫から缶ビールを出し、グラスに注いだ。
「お前も呑めよ」
同期が立ち上がり、もう一つグラスを取ると妻の前に置いてビールを注ぐ。
「ありがとう」
妻が微笑み、グラスを掲げた。
「今日も一日、お仕事ご苦労さま」
その言葉に、同期も微笑む。そして、ふと手のひらを口の横に当てて、内緒話のようになにかを呟いた。
「えっ、なに」
妻が耳を寄せる。同期がすかさず、妻の頬に口づけた。
「もう、やあだ」
妻が恥ずかしそうに笑い出す。同期はにやりと笑うと、今度は唇を突き出した。妻が微笑んで目を伏せる。
俺は拳を思いっきり振り上げ、渾身の力を込めて壁に叩きつけた。
やめろおおおおおおお!