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【小説】烏有へお還り 第25話

   第25話

「どうしたの」
 加工場の奥からやってきた和志が目を瞠った。柚果は制服の袖をもじもじと引っ張りながら、じっと下を向く。

「その恰好」
 和志の言葉に、柚果は隠すように自分に腕を巻き付けた。恥ずかしい気持ちになり、前髪を直すふりをしながら顔を半分隠す。

「ごめんなさい、急に」
 そう言って頭を下げた。扉の向こうに、不審そうにこちらを見つめる大人の顔が見えた。

「ここじゃ、ちょっと」
 困惑している和志の顔に、柚果の胸が痛む。加工場の扉を閉め、雑木林に向かって歩いていく背中を追った。

 大銀杏の前で足を止めた和志に、柚果はスマホを差し出した。柚果が煙草を指に挟んでいる写真が映し出されている。

「これ、あの時の」
 和志が眉をひそめた。

「全部消したんじゃなかったのか…」
 和志の嘆きに、柚果もうなだれた。あの時、もっとよく確認すればよかった。

「でもこれ、顔がわかりにくいよ」
 和志の言葉に、柚果はそっと頷く。あの時、カシャカシャカシャと連続した音がしたことを覚えている。おそらく、連写の機能を使ったのだろう。

 シャッター音に、柚果はとっさに顔をそむけた。そのため写真はピンボケしており、映っている顔は鮮明ではなかった。グループのSNSでも、『なにこれ』『え、これ誰』という書き込みばかりが並び、最後までこの写真の人物が誰なのかという特定はされなかった。

「しかも、この写真はすぐに送信取り消しされたの。今はグループの方には残ってない」

 和志の不思議そうな顔に、柚果は画面の暗くなったスマホを受け取り、

「わたしは、慌てて押したらダウンロードしちゃって」
 苦く笑う。他にもそんな風にしてこの写真を持っている人はいるかもしれない。

「あいつ、バカだな」
 和志が呟いた。首をかしげる柚果に、

「こんな写真が広まったら、かえって自分のしたことがバレるだろ」
 呆れるように言って息をつく。

「それが……」
 写真をグループのSNSに載せたのは伊佐治たちではなく、亜美のグループに所属する女子の一人だった。

「田久保さんって言うんだけどね」
 容姿も身だしなみも洗練されている亜美やグループの中の他の女子に比べて、田久保は真っ黒に日焼けした肌と、肉厚な体つきをしていた。一年生まではソフトボール部に所属していたらしいが、二年になる直前に部活を辞め、その頃から亜美たちのグループに入ったらしい。

 いつも柚果に対して直接攻撃をしてくるのは彼女だった。わざと柚果にぶつかり、その反応にくすくす笑う亜美たちに向かって得意げになっている様子は、まるで太鼓持ちだ。

「本当は、今日からテストだったの……」
 一睡もできないまま、重い脚を引きずって学校へ向かうと、下駄箱のところで亜美たちのグループが柚果を待っていた。

「サイテー」
 無視してすり抜けるつもりだったのに、田久保のそのひと言で手が震えた。息を吸ったが、言葉がなにも出てこない。自分が情けなくて、それでも涙だけはこぼさないように瞼に力を入れた。

「行こう」
 亜美の声に全員が柚果から離れ、階段の奥へと消えていく。

 チャイムが鳴った。けれども、教室に向かう足は一歩も出ない。柚果は脱いだばかりの靴を下駄箱から取り出し、もと来た道を戻った。

 伊佐治がなんと話してあの写真を亜美たちに見せたのかはわからない。
 けれども、柚果の言葉が誰かに届くとは思えなかった───。

「もう、学校辞める」
 そう呟いた途端、ずっとこらえてきた涙が流れた。嗚咽に変わる。
 テストをサボった時から決めていた。
 
「学校なんて大嫌い。行きたくない」
 そう言ったら、母は目を吊り上げるだろう。考えたら家にいられず、財布とスマホを手にしてここに向かっていた。

「わたしも和志くんみたいに、ここで宮大工の修行がしたい」
 柚果が言い終えないうちに、和志は首を振った。「無理だよ」と言われ、柚果の目に涙が盛り上がる。

「そうだよね……」
 和志には祖父がいるが、自分は違う。断られる前から、無茶なことだとわかっていた。

「いいな……和志くんは」
 柚果が呟いた。和志が答えに窮していることに気づきながらも、ささくれ立った心が勝手に言葉を吐き出す。

「和志くんがうらやましい」
「簡単に言うなよ!」

 柚果はびくんと肩を震わせた。和志が険しい顔をしている。

「ごめんなさい……」
 柚果が呟いた。和志はじっとそっぽを向いたまま口を噤んでいたが、やがて荒く息を吐き、踵を返した。加工場に向かって消えていく。

 柚果は肩を震わせた。嗚咽が止まらない。けれども、和志が戻ってくる気配はない。

 視界の端で、なにか白いものが動いた。驚いて顔を上げると、空からちらほらと雪が降ってきた。きんと冷えた空気に、膝が震えだす。

「……死にたい」
 口から洩れたその言葉が、耳に入って柚果の心と溶け合った。

『死ね』
 いつか見つけた、トイレの落書きが蘇る。柚果は目の前の生涯学習会館を眺めた。屋上を見上げる。

 引き寄せられるように踏み出した。ふと、いやな匂いが鼻をかすめる。夏に海の方から漂ってくる風に似ている。生臭いような、おかしな臭い。

「誰?」
 雑木林がざわめく。柚果は大銀杏に目をやった。その陰に誰かがいる。

『柚果ちゃん……』

 その瞬間、手の中のスマホが音を立てた。悲鳴を上げ、放り出しそうになる。
 着信の画面を見て目を瞠った。震える指でスライドし、

「もしもし」
 恐る恐る呟いた。ほんの一瞬の沈黙がとても長く感じる。

「もしもし、柚果!?」
 父だった。

「今、どこにいる!?」
 柚果の答えを待たず、父は電話の向こうで息を弾ませると、

「たった今、会社に連絡があって、大翔が二階から落ちて病院に運ばれたって……!」
 柚果はスマホを手にしたまま、声も出ず立ち尽くしていた。

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