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【小説】日曜日よりの使者 第17話
第17話
気がつくと、影は小さな黒い水たまりのように僕の足にまとわりついていた。
後ろから追いかけてきたはずの太陽は、今は僕の頭の上にいる。
冬の太陽は夏のそれと同じとは思えないほど。遠慮がちに僕の身体を温めていた。歩き続けていると背中がじわりと汗ばんでくるが、立ち止まって休憩していると、湿ったおでこを冷たい空気が撫でて気持ち良い。
ナップザックからペットボトルを取り出して一口飲んだ。ただの水がびっくりするほど美味しい。おにぎりを一口かじったとたん、それまでずっと発言を控えていた胃が空腹を訴え始める。
太陽が頭上にあるということは、今はちょうどお昼頃なのだろう。山田さんと別れて歩き始めてから五時間ほどが経過したことになる。
『そちらではありませんよ』
最初の一歩を踏み出した時だった。声をかけられ振り返ると、まるで着物の袖口を抑えるような優雅さで、山田さんが僕の真後ろを指していた。
『え、でも』
山田さんの指す方角は、登ってきた太陽とは反対側だった。戸惑いながら、僕は記憶を辿る。
『どこへ向かうんですか』
バスの中でそう尋ねた僕に、あの時山田さんは、
『西です』
と言ったはずだった。西へ向かった太陽を追いかけ、日曜日をつかまえるのだと。
『でもあっちだと、来た方向とは逆になっちゃうんですけど』
自信はない。それでも、思ったことを口にすると、まるで僕と同じ考えの人が目の前で頷いてくれているかのように、心強い気持ちになる。頭もクリアになってきた。
『こっちから来たわけだから、帰り道はこっちでしょう』
西に向かって真っ直ぐ進んできた。だから、帰りたいのなら東へ向かえばいい。
しかし山田さんは可笑しそうに目元をほころばせると、
『太陽だってそうじゃないですか』
と言った。意味が分からず目を丸くした僕に、
『太陽もまた、来た方向とは反対に帰っていくでしょう』
そう言って東の空を眺めた。登り始めたばかりの太陽がこちらを見返す。
東から現れ、西の空へ帰っていく───。
『ほらね』
僕らが噂していることなど知らんぷりで、太陽は登っていく。
『西のずっとずっと先は、東なんですよ』
山田さんの言葉に、僕は西に長く伸びる道の向こうのそのまた向こうを思い描いた。
『地球は丸いんです』
地球も、どの星もね。
そんな不思議な言葉が耳の奥に残っている。彼の言葉に従って、僕は西に進路を取った。
けれども、振り返っても山田さんが見えなくなった頃から、少しずつ不安が胸に広がり始めた。
一歩踏み出すごとに、目指すべき場所からどんどんかけ離れていくのではないかという疑いが深まる。足が重くなり、止まりそうになるのをかろうじて抑えた。
『地球は丸いんです』
山田さんにそう言われて、思い出したのは一冊の本だ。星の王子さま。
表紙には、小さな星にぽつりと佇む王子さまの絵がある。
座っている椅子をほんのちょっと動かすだけで、『日の入りを四十四回見る』ことができる王子さまの星。けれども、地球は王子さまの住んでいる星とは比べ物にならない。
本当に、僕の向かう方向はこれで合っているのだろうか。
不安が僕の心に根を張っていく。王子さまの星を飲み込むバオバブのように。
それでも僕は、足を止めることができなかった。不安なまま、それでも前に進むしかない。これまでもずっとそうしてきた。
どこを向いても、僕を導く家族はいない。追いかけるべき父の背中も、後ろで見守る母の笑顔も、手を引いてやる弟も。
太陽は歩き続ける僕をとうに追い越し、西の空へ向かっていく。日差しの温かさは薄れ、風も冷たくなり始める。
おーい、待ってくれ。置いていかないでくれよ。
心の中で叫び、足を速めた。振り返ると、暗くなり始めた東の空には星が瞬き始めている。
流れ星が東の空から西の空に向かって吸い込まれていった。
『流れ星は、誰かの流した涙なんです』
誰かの流した涙が、僕の道しるべになる。
『空に浮かんでいる星は、誰かの悲しみなんです』
どこかの誰かの悲しみが、僕の足元を照らす。
いつかの僕の涙や悲しみも、どこかの誰かを助けていたらいい。
そう思った。