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【小説】もうひとりの転校生 第5話
第5話
早めの昼食を取ってからイベント会場に向かうと、入り口で名古屋支店の従業員たちが出迎えてくれた。
「遠いところ、お疲れさまです」
名古屋の支店長が目を細めた。髪は白いが、きびきびとした動作と、引き締まった顔に若さを感じる。
広い会場にはたくさんの企業のブースがあった。ほんの四畳ほどの小さなスペースもあれば、その倍の広さをあてがわれている企業もある。俺たちが通された場所は中でも一、二を争う広さがあった。
「けっこう立派ですね」
小島が雰囲気に押されたように肩を縮める。
「さあ、さっそくチェックに入ろう」
ディスプレイの骨組みなどは専門の人に任せてあるが、最終チェックはこちらの仕事だ。
「前田さん、バスケットシューズのデザインはこっちですよね」
「ここって、ゴールポストのディスプレイの予定では」
「展示用のテニスラケットのラバーグリップが剥がれています」
準備は万端だったはずなのに、取り掛かってみると予定外の事が起こる。それでも、細かいところまで行き届いているのは流石の同期の仕事ぶりと言えた。
一番奥に設置された裸のマネキンに歩みより、俺は自分のボストンバッグで直接運んできた発売前の新商品を着せた。まだ世界中でどこにもないスイムスーツだ。
特許出願中というラベルを貼る。朝わざわざ同期が会社に寄ったのはこれのためだ。
ここまで運んでくる間、俺も緊張した。もしこれを無くしたりしたら俺は、いや、同期はクビだろうな。
マネキンをガラスケースに入れて鍵をかける。俺が預かることにした。
「喉が渇きませんか。冷たいお茶を用意していますから、どうぞ」
名古屋支店の従業員たちに誘われ、展示室のバックヤードで後輩たちと共にコップを傾けていると、
「明日は朝から大変そうですね」
隣に腰を下ろした支店長から声をかけられた。
俺はもちろん初対面だが、同期はどうなのか。おそらくこのイベントのために打ち合わせは重ねているはずだ。
距離感がわからないので、手探りで、
「そうですね。気が抜けない一日になりそうです。いろんなメーカーさんや販売店さんがいらっしゃいますし」
一番気がかりな部分を口にすると、
「いつも懇意にしていただいている方たちですから、大丈夫ですよ」
支店長が言った。その温かい口調に救われる。
同期は今頃、どうしているだろう。きっと悔しいだろうな、この場に立ち会えなくて。
ずっとこのイベントのために奔走してきた同期が、この様子を見ることができないのは気の毒だ。そうだ、写真を撮って送ってやろう。そう思って、スマホを取り出した時だった。ガチャンという音に続き、きゃあという悲鳴が上がる。
「ごめんなさい!」
叫んだのは瀬能はるかだった。なにが起こったのか、数秒の間にその場にいた全員が理解した。お茶の入った大きなペットボトルを倒し、グラスを割ってしまったのだ。
こぼれたお茶はテーブルの上に大きな池を作り、そこから一斉に、足元に置かれていた箱の中に降り注いだ。
「ああ! なにやってるの!」
女子社員の中では一番の年上である川瀬がそう叫び、慌てて避難させる。しかし中のものはびしょ濡れになってしまっていた。
箱に入っていたのは、明日の来客者に配る予定の封筒だ。中身は、新商品のチラシと、商品一覧のパンフレット。
「ごめんなさい、ごめんなさい」
「いいから雑巾!」
川瀬に怒鳴られ、瀬能はるかはどこかへ向かって飛び出していった。別の女子社員がため息をつきながら、ポケットからタオルを取り出して机の上のお茶を吸い取る。
「どうします、前田さん」
小島が濡れた封筒を俺に見せた。二箱のうち、一箱がすっかり台無しになっている。被害は甚大だ。
「残ったものだけでは、足りないですよね」
「そうだな……」
残った方の箱を見て、俺は考えを巡らせた。
「仕方がない、作り直そう。封筒は社名入りじゃなくていいから、無地のもので間に合わせて、新商品のチラシは普通紙でプリントアウトする」
はい、と答えた後輩たちがさっそく動き出す。なかなか優秀じゃないか。同期の教育の賜物か。
「ただ、商品のパンフレットの方は……」
本社から送ってもらうには間に合わない。商品はもちろんネットでの問い合わせが可能だが、パンフレットにはQRコードが着いており、詳しい案内が載っている。
「後日、各社にお送りさせてもらうことにしよう。みんなも、明日の来客者にはそう伝えてくれ」
受付の来訪者リストを参照して、東京に戻ってから送ればいい。そう言いかけたところに、
「パンフレットなら、少し前のものですけど、確かうちに在庫があると思いますよ」
濡れてしまったパンフレットをパラパラとめくりながら、名古屋の支店長が言った。
「内容も変わっていないと思います。ただ……」
「ただ?」
「今は畳まれてしまった、新潟支店が掲載されたままなんです」