【小説】コトノハのこと 第3話
第3話
「五回よ。一日たったの五回。一日中家にいるのに」
「五回はないわよねー」
リビングから妻と娘の声が響いてきた。最初は小声で始まったはずの妻と娘の会話は途中から大きくなり、廊下やガラス障子に隔てられた私のところまで届いてくる。
「そうでしょ。それだって、こっちが投げたのに対する相槌だけ」
「九官鳥だってもっとしゃべるわね」
「あー毎日つまらない。話し相手にもならないんだもの」
「いいじゃないの、静かでうらやましいわよ。こっちは毎日がバタバタよ」
詰将棋をしながらも、会話が勝手に耳に入ってくる。かつては孫と同じくらい幼かった娘が、まるで妻の友達であるかのようだ。
「さあ、できたっと。ハナちゃんごめんね、お腹空いたよねえ」
「ハナ、おじいちゃん呼んできて。ごはんですよーって。ねえ、そのくらいできるでしょ。もう、そんなんじゃ幼稚園に行けないよ!」
私は静かに腰を上げた。ガラス障子を開けて廊下に出ると、ぷんといい匂いがしてきた。オムライスだとすぐにわかった。
子供が巣立ってから、夫婦二人だけの食卓にはめったに上ることはないメニューだが、嗅覚の記憶は健在だったようだ。つられて、その味や食感までもが口の中に蘇る。
しかしダイニングテーブルに並べられたオムライスは孫と娘と妻の前だけで、私の席には丼が置いてあった。だしの匂いが漂う。
「お父さんはオムライスなんて食べないでしょ。お蕎麦でいいよね」
娘が言う。昨日と同じメニューだったが、「うん」と答えた。
「ハナちゃん、ほら、フウフウしたからもう熱くないよ」
妻は嬉しそうに孫の世話を焼いている。
「ハナ、その前にいただきますでしょ。ちゃんと言いなさい。もう、そんなんじゃ幼稚園に行けないよ!」
黙り込む孫の口に、「ほらハナちゃん、あーん」と妻が匙を運ぶ。
「心配よ。この子、こんなんで幼稚園大丈夫かなあ」
娘が嘆いた。妻の奥に座る姿をちらりと見る。もぐもぐと口を動かす孫は、表情のない静かな目をしていた。
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