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【小説】烏有へお還り 第21話
第21話
歩くたび来客用のスリッパがペタンペタンと音を立てる。廊下の突き当りを左に折れ、手作りのプレートの下がった扉の前で柚果は足を止めた。
中の様子を窺いながらそっと叩扉すると、
「はーい、どうぞ」
聞きなれた親しみのある声が戻ってきた。知らず知らずのうちに抱えていた緊張がほぐれる。
「こんにちは」
わずかに扉を開いて顔を覗かせると、
「あら、柚果ちゃん」
女性が椅子ごと振り返り、目を丸くした。ぺこりと一礼し、柚果が部屋に入る。
カウンセラールームの中は、柚果がこの小学校に通っていた頃とほとんど変わっていなかった。二年の月日が一瞬で溶ける。
小学生の時から、友達作りは下手だった。特に五、六年生の時は、急に大人びた女子たちの影響でクラスが二分化してしまい、ますます自分らしくいるのが難しくなった。
そんな柚果にとって、ここは大切な場所だった。
『柚果さん、大丈夫?』
『なにか悩んだり、困ったりしたことがあったらいつでも言ってね』
柚果の様子に気づいた担任から幾度となく声をかけられても、
『大丈夫です。ありがとうございます』
そう答えるだけで、どのように相談したらいいのかわからなかった。担任はいつだって忙しそうだし、柚果だけのものではない。そしてなにより、
──寂しい。
という気持ちは、「悩み」でも「困ったこと」でもない。
『そんなことは自分で解決しないとね』
きっとそう言われてしまうと思うと、怖くて打ち明けることができない。そんな柚果にとって、スクールカウンセラーの御堂先生は身近に感じられる存在だった。
『これ、こないだ買ったの』
そう言って新しいペンケースを見せれば、
『ああ、気になるって言ってたやつだよね』
前に柚果が話したことも覚えていてくれる。そんなことがたまらなくうれしかった。
「柚果ちゃん、久しぶり」
先生がそう言って椅子から立ち上がった。照れくささから、ひょこっと首をすくめるように会釈する柚果に、
「遊びに来てくれたの? 嬉しいな」
制服姿を眺めて、嬉しそうに目を細める。
「柚果ちゃん、ずいぶんと大人っぽくなったね」
「先生は変わらないね。相変わらずキレイ」
「えー。嬉しいこと言ってくれる」
二人の笑い声が重なる。いつもそうだ。ここではリラックスして、普段よりも言葉がすらすら出てくる。
「先日は母が失礼しました。弟のことで……」
頭を下げた柚果に、
「大翔くんの様子はどう?」
先生が心配そうに眉をひそめる。
「ええと、相変わらずです」
言いながら、
『別に。独りごと』
と、柚果に背を向けた弟を思い出す。部屋から聞こえてきた声は、まるで誰かと会話をしているかのようだった。
亡くなる前の志穂に独りごとが増えたという星奈の話に結びつき、形にならない不安が渦巻く。
すべてを打ち明けてしまいたい気持ちを、すんでのところで押し留めた。本来の目的を思い出す。
「あの、実はちょっと聞きたいことがあって」
柚果はそこで言葉を切ると、
「先生、高田志穂さんって知ってますか」
と尋ねた。先生の顔が一瞬で曇る。
「……うん。高田志穂ちゃん。知ってるよ」
柚果が小学生のころ、カウンセラールームはいつでも解放されていたが、御堂先生は週の半分は不在だった。先生はこの学校と近隣の小学校の二つを担当しており、そこには志穂が在学していた。
「志穂ちゃん、あんなことになって残念だった……」
先生がそう呟き、唇を噛んだ。柚果もじっと頷く。
「あの、先生に聞きたいことがあって」
そう言うと、先生は我に返ったように背筋を伸ばした。
「実は───」
志穂の母から聞いた『話を聞いてもらえてすっきりした。わかってもらえてウレシかった』というメモの存在を伝える。先生はじっと考え込んだ。
「先生、高田さんとは親しかったんですか」
柚果の問いに、先生は頷くと、
「あっちの学校のカウンセラールームに来てくれて、何度か話もしたの」
その時のことを思い浮かべるように宙を見上げる。
「でも、志穂ちゃんは自分の話はあまりしないで、人の心配ばかりしている子だった」
柚果の知っている志穂の印象と重なる。先生は寂しそうに微笑むと、
「志穂ちゃんはいつも、誰かの役に立ちたいって思ってる子だったのね。わたしはそれを応援してたけど、でも」
言いかけて口を噤んだ。表情が曇っていく。
「メモにあった、高田さんの話を聞いてあげた人は、先生ではないんですか」
ここに来るまでは、きっとそうに違いないと思っていた。
「違うわ」
しかし先生は首を振ると、
「本当は、もっと志穂ちゃんの話を聞いてあげなければいけなかった……」
と苦しそうに言った。まるで先生を責めているようにも思えて、柚果の心が痛む。
先生はいつも、相手の話を無理に聞き出そうとはしない。柚果が話す、読んだ本の話や、家族と出かけたこと。それだけでなく、車の窓から見かけた不思議な形の家、教室内で流行っている新しい言葉。そんな話にさえ、耳を傾けてくれる。
そうやって他愛ない話をしているうちに、やっと誰にも言えなかった胸の内を話すことができた。「悩み」というしっかりした形になる前の、ぼんやりした名前のない気持ちに寄り添ってくれる。そんな人は他にいない。
「でも、そうだったのね。志穂ちゃんの話を聞いてくれた人がいたのね。それだけでもよかった」
先生が寂しそうな笑顔になる。
「本当に先生ではないんですか?」
ひょっとして、覚えていないということはないだろうか。柚果の問いに、先生は頷くと、
「うん、実は志穂ちゃんのことは気になっていて、話を聞こうとしたことがあるの。でも」
『わたしは平気』
志穂は笑顔でそう言うだけだった。
『あの子はいつも、学校での様子を、楽しそうに報告してくれていたから……』
志穂の母の言葉が蘇る。
「でも、そしたら……」
柚果はじっと考え込んだ。そんな志穂の話を聞き『わかってもらえてウレシかった』とまで言わせた人物は一体誰なのだろう。
「柚果ちゃん」
顔を上げると、先生がじっと柚果を見ていた。
「もしその人がわかったら、わたしにも教えてくれるかな」
さっきまでの苦しそうな顔ではなく、険しい目をしている。
「はい……わかりました」
戸惑いながら首肯する柚果に、先生はふっと表情を緩めた。
「それとね、ひとつ約束してほしいの。危ないことはしないって」
柚果が目を瞠る。危ないこと、とはどんなことか。しかし先生は机に戻りペンを手に取ると、
「何時でも構わないから、どんなことでも連絡して」
そう言って、さらさらとメモを書いた。差し出されたメモには、個人の連絡先が載っている。
心配されているのだとやっと気づいた。胸がじわりと熱くなる。
目の前の先生を改めて見つめた。あの頃、この笑顔にどれほど救われただろう。柚果の話にいつも優しく耳を傾け、居場所を与えてくれた人。
涙目を隠すように前髪を整え、柚果は、
「ありがとう、さな恵先生」
と言って、頭を下げた。