【小説】もうひとりの転校生 第3話
第3話
まず、同期と俺が入れ代ったことを妻に説明してわかってもらう。しかし四歳児に理解させるのは無理だろう。
仕事を終えたら俺は同期と共に家に帰り、娘にはパパの友達が泊まりにきたのだと説明する……と頭の中で立てていた計画が、一瞬にして砕け散った。
俺が同期の代わりに出張? そして、我が家には俺に成りすましたこいつが帰る?
「イヤだ、断る」
俺は断然と言った。当然だ。考える余地などない。
「なに言ってんだよ。お前だって知ってるだろ。名古屋の販促イベントだぞ」
同期が血相を変えた。チクリと胸が痛む。
確かに、販促イベントの重要性は知っている。数年前から決定し、年が明けてからは特に社を上げてこのイベントに取り組んできた。
しかもこいつはイベントの責任者だ。その責任者がすっぽかすというのはどういうことか。考えるまでもなくクビだろう。
しかしその一方で、俺の頭には我が家の光景が浮かんできた。俺に成りすました同期。その横で無防備に着替える妻。風呂上りの妻。布団に横たわる妻……いやいやいや、やっぱりダメだ!
「知らん! 俺には関係ない!」
叫んだ途端、同期の顔色が変わった。すっと背筋を伸ばし、冷たい一瞥をくれると、
「ああそうか。そういうことなら、俺にだって考えがある」
低い声で呟いた。その声は俺のもののはずなのに、背筋がぞくっとした。
「俺だってお前の仕事を放棄してやる。いや、いっそ退職届けを出してやるからな」
「やめろ! 俺はまだ二十八年もローンが残ってるんだ!」
清水の舞台から飛び込むような気持ちであのマンションを買ったのだ。毎月の生活費、子供たちの養育費、俺と妻の老後の貯蓄、もちろん俺の月の小遣いも、すべて俺の肩にかかっている。
「頼む、この通りだ」
同期が俺に向かって必死に両手を合わせる。
「お前が名古屋に行ってくれたら、俺もお前の仕事を代わりにきちんとこなす。約束する。有給ひとつ使わない」
迫ってくる同期を避けて身をよじった。顔を背けながらも、ちらりと見てしまう。
その目にはいささかの私心もなかった。あるのはただ、自分の仕事をやり遂げなければいけないという使命感だけ。下げているのは俺の頭だけれど。
「当たり前だ! 勝手に使うな!」
そう叫んだ時は、俺の腹はもう決まっていた。男たるもの、自分の意志を曲げてでも、行かねばならない戦がある。
くそ。なんだってこんなことに。
「何時の新幹線に乗るんだよ」
俺がそう言うと、同期は一瞬だけほっとしたような表情を見せてから、
「九時二十三分。チームのみんなとはホームで集合する予定だ」
きびきびと言った。他のメンバーたちは自宅から直行しているらしい。
「お前なあ、なんだってこんな時間に会社にいるんだよ」
恨み言の一つも言いたくなる。他のメンバーたちのように大人しく東京駅に集合していてくれたら、こんなことにはならなかったのに。
「発売前の新商品だけは、この時間に会社で受け取ってから持っていくことになってたんだよ。今何時だ」
同期は壊れた時計に目をやり、忌々しそうに舌を打った。俺も同じように、さっき返された自分の時計に目をやるが、動いている気配はない。
「ちょっと待て。スマホの時計を……」
言いながら、俺は右の尻ポケットを探った。しかしスマホがない。
「あ、あれ……」
慌てて反対側や、前ポケットをまさぐる。そんな俺に同期はため息をつきながら近寄り、俺の胸元に手を入れると、内ポケットからスマホを取り出した。画面を開き、様子を確かめている。
「あ、そうか」
俺もまた、同期のズボンのポケットに刺さっているスマホを取り出した。画面を開いてみると、壊れてはいないようだ。ほっとしてSNSの受信履歴を確認しようとすると、同期が俺の手からスマホをつかみ取った。
「おい、なにするんだよ!」
慌てて手を伸ばすと、
「お前は俺のスマホを持って行け」
と、同期が俺の手に自分のスマホを押しつけた。
「それからこれも。中には今日のイベントの詳しい資料が入ってるから」
同期は転がっていたボストンバッグを拾い上げ、こちらへよこす。
受け取り、俺も自分の鞄を渡した。同期が俺のスマホを上着の内ポケットに差し込むのを、恨めしい気持ちで眺める。妻に事情を話すことも、こいつに警戒するように伝えることもできないまま、俺は名古屋に行くのか。
「お前、余計なところはいじるなよ」
意地になってそれだけは伝えると、同期はふんと鼻を鳴らし、
「女か」
と呟いた。
「そんなわけないだろ!」
思わず声が裏返る。背中にどっと汗をかいた。
『昨夜は楽しかったね♪ またお店に来てね ユウカ』という文面が頭に浮かぶ。
半年前に、飲み会終わりで同僚の何人かとキャバクラに入った時に、調子に乗って女の子と連絡先を交換したことがあった。次の日に慌てて消去したが、あのデータを復活させることなどできるのだろうか。
俺の鞄を手にした同期を眺めた。どこからどう見ても俺だ。これが「ただいま」と帰ってくれば、妻はきっと疑いもしないだろう。
「お前……うちの妻に手ぇ出すなよ」
言葉に出した途端に、かえって不安になってきた。
「出さねえよ」
呆れたような同期の言い方も、どこかわざとらしく聞こえる。
……怪しい。
そういえばこいつは、元々うちの妻に対して下心を持っていたような気がする。
俺と妻とは社内恋愛だ。出産を機に退社するまで、妻はうちの会社にいた。というか、結婚するまで同じ部署同士でつき合っていた。もちろん周囲には内緒で。
その頃のことだが、先輩後輩を交えた男同士の飲みの場で、何も知らない同僚の一人が『篠田さんって足がキレイだよね』とたまたま妻のことを話題に出した。
するとその場にいた数人がその話題に乗った。
『わかります、俺もそう思ってました』
『ただ細いんじゃなくて、健康的な程よい肉付きだよな』
『知ってるか、足首がキュッと閉まってるオンナはな……』
──みんなが好き勝手なことを言い合う中、俺は何食わぬ顔で酒を呑んでいた。すると、隣で同じように静観していたのがこいつだった。
他の誰も気づいていなかったが、俺には引っかかるものがあった。こいつは辛口で、こういう場では普段、悪口しか言わない。
興味なさそうな素振りで、そのくせなにかじっと考えている横顔が印象に残った。その時の記憶が蘇り、
「おい、お前、実はヤる気だろ」
試しにかまをかけてみる。すると、
「いや……万が一ヤったとしても、これはお前の身体なわけだから……」
ボロを出した。やっぱりだ! 俺はその場で殴り倒したくなったが、さすがに自分の肉体を苛める気にはなれない。肩を掴み、壁にぐいと押しつけた。
「ふざけんな! ヤったら殺すからな!」
同期は身体をよじり、俺の手を逃れると、
「わかったよ。絶対に手を出さない」
そう言って両手を挙げた。
「お前……マジで」
「出さない! 絶対に出さない! 約束する」
同期が強い口調で俺の言葉を遮る。この期に及んで名古屋行きをゴネられたら困る。そう顔に書いてある。
俺だって、本当は行きたくない。だけど、行かないわけにいかない。こいつのためじゃない、俺の、ひいては家族のためだ。
「約束だからな。手ぇ出したら殺すぞ」
精いっぱいドスを利かせると、ボストンバッグを肩にかけた。
「殺すったって、これはお前の身体だろが」
ぼそりと呟く声が耳に届く。俺は振り返って睨みつけた。
「うるせえ!」
聞こえると思っていなかったのか、同期は慌てたようにもう一度両手を挙げ、首を横に振った。
くっそ。約束破ったらこの身体がどうなるか、覚えとけよ。
俺は会社を飛び出し、東京駅に向かうタクシーに飛び乗った。