【短編小説】捨て猫リカ 第9話
第9話
警察署の中の一室で、理加はしょんぼりとパイプ椅子に腰かけていた。
足元のビニール袋には、濡れた制服が入っている。書店で万引きを見とがめられた時に粗相をしてしまったらしい。
代わりに身に着けているのは、わたしが急いで買ってきたスウェットのパンツだ。大人用のSサイズを選んだのだが、片手で抑えながら歩かないとずり落ちてしまう。
窓の外に目をやった。もうとっぷりと日が暮れている。そろそろ夫が仕事を終えて帰ってくる時間だ。
万引きした上に、店内で粗相してしまった理加を持て余し、書店員は警察に連絡した。連行される理加に付き添うことを決めた時、実家の母に電話をして菜摘のことを頼んだ。
その後は自分の車を拾って理加が連行された警察署に駆けつけ、一度合流してから慌てて彼女の着替えを買いに行ったりとせわしなかったので、事情を説明する文章を夫に送ったのがついさっきだ。今ごろ驚いているに違いない。
女性の警察官が部屋に戻ってきた。生活安全課の少年係だそうで、年齢は三十代前半くらいだろうか。頭ごなしに叱るようなことはせず、優しく気遣うように声をかけていたが、理加は口を開かず、ただ彼女の言葉に神妙に頷くだけだった。
「親御さんから連絡きた?」
女性警察官の問いに、理加が力なく首を横に振る。彼女は小さく肩を落としてから、湯気の上がるカップをわたしと理加の前に置いた。
「すみません、ありがとうございます」
うなだれたまま顔を上げようとしない理加の分も礼を言った。
書店の奥に連れていかれた時から、理加が何度も親に連絡を入れているが、つながらない。女性警察官が理加の母親の勤務先に連絡をしたところ、所用で外出中とのことだった。
学校に連絡をするという手段もあるが、それは理加が嫌がった。どのみち教師が来たとしても、保護者と連絡が取れるまでは理加を家に帰すわけにいかないだろう。
わたしでは引受人になれなかった。理加との関係を尋ねられたものの、なんと言っていいのかわからず、出会いからこれまでをざっと説明した。
引受人にはなれなくても、付き添いの大人がいることが安心なのか、理加の保護者になかなか連絡がつかないことに女性警察官が苛立つ様子はなかった。
「既読はついたの?」
こっそり尋ねたが、理加は静かに首を振った。その様子に、女性警察官は再び部屋を出ていった。
わたしのスマホが振動する。母からだった。『パパが帰ってきたからわたしもう帰るよ。ご飯作ってあるからね』というメッセージに、ありがたくて言葉もない。返信を打っていると、
「ごめんなさい……」
小さな呟きが聞こえた。スマホから顔を上げ、理加に目をやる。
久しぶりに発せられたその声にほっと胸をなでおろしていると、理加が肩を震わせ始めた。わたしは椅子から立ち上がり、理加の小さな肩を抱いた。
「ごめんなさい……」
堰を切ったように嗚咽が漏れ始める。わたしはその背中をさすった。
「最初の時にね、あのまま見過ごしちゃったわたしも悪かったの」
悔やんでいた。あの時にしっかりと叱っておいたら、今回のことは防げていたかもしれない。警察署に付き添うと決めたのは、自分自身にも責任も感じていたからだ。
理加は泣きながら首を横に振った。それを見ているうちに、心に引っかかっていた疑問が口からするりとこぼれた。
「両親が亡くなっていて、伯父夫婦の家に住んでるって言ってたよね」
理加は嗚咽を止め、ハンカチに顔をうずめたままじっと黙っている。
「あれは嘘だったのね?」
静かにうなだれたのは、肯定を意味するようだった。目は合わせないまま、それでもハンカチから顔を上げてわたしに向けた。
「学校で苛められているっていうのはどうなの? 万引きは本当に強要されたの?」
理加は横隔膜を震わせるように溜まった息を吐きだすと、涙に濡れた顔を上げ、首を振った。
「それも嘘です。友達はいないし、誰も口をきいてはくれないけど、苛められてはいません」
返す言葉が見つからなかった。けれども、もう一つだけ確認しなければいけない。
「……菜摘に言った、あのことは?」
理加がはっとしたように身体を固くした。わたしの視線とぶつかると、たちまち目を潤ませた。
「ごめんなさい……」
理加の喉から嗚咽が漏れる。口元を覆った手のひらに、涙がぽたぽたと流れた。
見ているうちに、わたしまで鼻の奥がつんとなってくる。すすり上げてから、
「どうしてそんな嘘つくの?」
目尻の涙を指で拭いた。理加は何度も息を呑み、
「だって……」
手の中のハンカチをぎゅっと握りしめる。
「そうしないと、誰もわたしなんかの話を聞いてくれないもん……」
「そんなこと──」
その時、女性警察官が部屋に入ってきた。よく見ると、後ろに一人の女性を連れている。
年齢はわたしよりも少し年上だろうか。すらりとしたスーツ姿で、化粧にも隙がない。
彼女は足音を響かせながら部屋の中に入ってくると、理加に向けて顎をしゃくった。
「引き取ってもよろしいんですよね?」
女性警察官に尋ねる。わたしなどには目もくれない。
「少しだけお話をさせていただきたいのですが」
若い女性警察官は少しひるんだ様子だったが、理加の母親は冷たい口調で、
「仕事が忙しいもので、これで失礼させていただきます」
とだけ言うと、理加を追い立てるように部屋を出ていった。
残された制服とバッグをつかみ、わたしは慌てて二人の後を追った。廊下に出ると、
「わたしは仕事に戻るから、一人で帰りなさい」
という声が聞こえた。母親は理加に背を向け、警察署を出ていく。
「待って、ねえ、お母さん」
理加が叫んだ。真っ暗な駐車場に消えていく後ろ姿を追いかける。しかし母親は歩みを緩めようともしない。
「お母さん!」
ずり落ちそうなスウェットパンツを片手で抑えながら、理加が叫んだ。ただでさえぶかぶかだった革靴は、濡れた靴下を脱いだ裸足には大きすぎて今にも脱げそうだ。振り向きもせず歩き続ける母親と、ちっとも距離を縮めることができない。
「お母さん!」
理加が足を引きずるように追いかける。母親の姿はもう見えない。
「お母さぁん!」
わたしはたまらなくなって、理加に駆け寄ると後ろから抱きしめた。
「貴子さん離して! お母さんが行っちゃう」
理加はそう言って身をよじったが、足は前に進もうとしない。
「だめ、貴子さん。ねえ、お母さんが行っちゃうよぉ」
理加の声を聞きながら、鼻水が垂れないように顔を上に向け、理加をなおも抱きしめ続けた。涙があふれてくる。
なぜ置いていけるのだろう。必死で自分の名を呼び、追いかけてくる我が子を。
「……理加ちゃん……」
わたしがその名を呼ぶと、理加は声を上げて泣き出した。もう母親に顔を向けておらず、わたしに必死にしがみつく。
やがて膝のあたりがじわりと暖かくなり、ひやりと冷たい感触に変わった。
どのくらいの時間が経ったのか、理加は泣き止んで、静かになっていった。
「ねえ、理加ちゃん」
わたしは手の甲で自分の顔を拭うと、頬に貼りついた理加の髪を耳にかけた。
「嘘がばれるって、恥ずかしいでしょう?」
理加は鼻をすすりながらうなだれる。
「もう騙さないで」
わたしはもう一度理加をしっかり抱きしめた。
「嘘じゃなくて、あなたの本当の言葉を聞きたいの」
わたしの言葉に、理加は驚いたように目を瞠った。そして、下瞼をぴりっとさせると、強く頷いた。
腕を緩めて理加を解放すると、理加の服に目をやった。さっき買ったばかりのスウェットの内股が濡れている。グレーだったのでよく目立った。
自分の服はそれほどでもなさそうだった。暗くてよく見えないが、ストッキングと靴が湿った程度だろう。
「わたしの車にタオルが積んであるから、シートに敷いてからその上に座ってね」
理加が目を丸くする。
「うちで一緒にご飯を食べましょう。その前に着替えないとね」
理加が口を引き結び、目を潤ませる。その肩を撫でた。
後ろから声がして振り返ると、さっきの女性警察官が制服の入ったビニールとバッグを持ってこちらに走ってくるところだった。
「忘れ物ですよぉ」
理加と目を合わせる。どちらからともなく笑いがこみ上げ、ぷっと噴き出した。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?