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【短編小説】望月のころ 第3話

   第3話

 武から連絡があったのは春の初め。花冷えの頃だった。

「どうせヒマだろ? 今夜呑もうぜ」
 いつくかの〆切を抱え、ここ一週間はまとまった睡眠も取れずにいた。やっとパズルのピースがすべて揃い、なんとかして組み立てたそれを暗記するほど読み返し、推敲を重ねて、やっと担当に送ったところだった。

「どうせヒマ」という言い方はいささか腑に落ちなかったが、空っぽの冷蔵庫の前で空腹を抱えていたところだったので即座にOKした。

 待ち合わせよりもかなり早めに家を出る。日は沈みかけていたが、まだわずかに明るかった。すっかりなまってしまった身体に喝を入れるように、何駅か分の道のりを歩く。

 公園の前を通ると、シートを片付ける花見客が見えた。外灯に照らされた幹は銀色に輝き、薄桃色の花をつけた枝が、薄暮の空の下でまるで演舞のように揺れている。冷たい風に追い立てられ、花見客たちが首をすくめて逃げて行った。

 店に入ると、武はまだ来ていないようだった。スマホを開いて着信も受信もないことを確かめ、ビールを注文した。
 やってきたお通しに箸をつける。空腹に染み渡った。仕事を終えた解放感から、エンドルフィンが脳を痺れさせる。

「よっ」
 二十分ほどして、武が現れた。

「あ、そっか。この店、生ビールないんだっけ。じゃあ瓶で」
 僕の座っているテーブルに目をやりながら、カウンターの奥の店主に言った。

「今日、さみぃよな」
 と言いながら、武が上着も脱がずに向かいの椅子に腰かけた。

「悪いけど、先にやってたよ」
 遅れてきたことを詫びない武に、こっちが代わりにそう言うと、

「別にいいよ。あ、唐揚げと刺身の盛り合わせ」
 ビールとグラスを運んできた女性店員に、武がメニューも見ずに言った。

「会社出ようとしたら、つまんねえ仕事押し付けられてさ。雑用ばっかりだよ」
 ぼやく武に、僕が瓶を差し出した。グラスに金色の液体が注がれる。

「それじゃ、おつかれ」
 杯を合わせた。武はビールをあおり、大きくため息をついた。

「人使い荒いんだよな、うちの会社は」
 武が今の会社に入って、まだ半年ほどだ。大学を中退し、ずっとフリーターをしていたが、子供ができたことをきっかけに結婚し、就職した。

 しかし数年在籍したその会社も合わない上司と喧嘩して辞めてしまい、苦労の末に再就職できたのが半年前だった。

「任せてもらえるなら、いいじゃないか」
「どんどん人を減らしてさ、なんでもかんでもこっちに押しつけてくるんだぜ。最初の話と違いすぎるだろ」

 大学在学中に賞を獲ったものの、卒業してからしばらくは僕も会社員をしていた。やっと物書きとしての収入の方が上回り、会社を辞めたのはほんの一年前だ。武の気持ちはわかるつもりだった。

「マジで辞めたい」
 武のとめどない愚痴に耳を傾けているうちに、

「いらっしゃいませ」
 店内がにぎわい始める。常連客がカウンターを埋めていく。
 空になった瓶を脇にどけ、武はメニューを手に取った。

「透、もっと食うよな」
 飲み物ではなく、食べ物の頁を開いている。

「ここ数日、ろくなメシ食ってなくてさ。カップラーメンばっかで」
「どうして?」
「うちのやつ、実家帰ってるんだよ」
 武がビールのお代わりと焼き鳥の盛り合わせを注文する。僕は熱燗を頼んだ。

「なにかあったのか?」
 女性店員が遠ざかるのを待ってから尋ねると、

「なんか、ノロウィルス? いや、ロタだったかな」
 武が声量を下げずに言う。女性店員がちらりとこちらを見たような気がした。

「彼女と操ちゃん、どっちが?」
 声をひそめて尋ねると、

「どっちもだよ」
 武が眉を寄せた。

「そうか……大変だな」
 子供までもが具合が悪いとなると、母親はゆっくり休んでいられないだろう。

「マジで大変だよ。洗濯物溜まってるし、今日なんて靴下なくてさ。仕方ないから、一度履いたやつからあんまり汚れてないのを拾ったよ。風呂だって、疲れて帰ってきてるのにシャワーしか浴びれないしさぁ」

「お前のことじゃないよ。彼女と操ちゃんが大変だって言ったの!」
 呆れながら遮った。「自分で洗濯して、風呂掃除しろよ」

「知らねぇもん。洗濯のしかたなんて」
「全自動なんだから、洗剤入れてボタン押せばしまいだよ」
「いいよ、めんどくさい。そろそろあいつも帰ってくるだろうし」

 武の言葉に、僕は口を閉じ、手酌で熱燗を注いだ。これ以上は踏み込むべきではない。

「でも、帰ってきた時に家の中がめちゃくちゃだったら、病み上がりでつらいだろ」
 踏み込むべきではないとわかっているのに、舌が止まらない。

「大丈夫だよ。それに、俺だって具合が悪かったのに置き去りにされたんだぜ」
 武が口を尖らせた。

「操とさくらよりも、最初に具合が悪かったのは俺なんだよ。まだちゃんと治ってなかったのに、置いていくなんてひどいだろ」
「そしたら、お前が二人に伝染うつしたんじゃないか」

 思わず責める口調になった。呑みっぷりや食べっぷりからして、すっかり回復しているのは間違いなさそうだ。

「知らねぇよ。そんなこと言ったら、俺だって誰かから伝染うつされたんじゃん」
 武が不機嫌そうに鼻から息を漏らした。少し言い過ぎてしまったかもしれない。

「そんなに長く不在なのか?」
 労いを込めて言うと、

「いや、先週からだから一週間かな。多分、木曜日には帰ってくると思う。一人だとヒマでさぁ。仕方がないから、週末は一日中パチンコやってたよ」

 そんなにヒマなら洗濯くらいしろ、という言葉をかろうじて飲み込んだ。代わりに、

「ほら、いっぱい食べてくれ」
 湯気の上がる焼き鳥の皿を、武の方に押し出した。

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