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【小説】もうひとりの転校生 第17話

   第17話

 本社ビルの窓はすべて明かりが落ちており、会社には誰も残っていないようだった。

 裏に回り、通用口の横にある警報装置のカバーを開けてみると、セキュリティー解除のランプが点灯している。どうやら、同期は先に着いているようだ。

 建物の中に入る。中は暗く、緑色の常夜灯が廊下を不気味に浮かび上がらせていた。見慣れた会社のはずなのに、気味が悪い。

 身を庇うように、ボストンバッグを両腕で抱えて進んだ。廊下の先の非常階段に明かりがついているのがわかる。

 明るい場所に出てホッとした。階段を上ると、いつもほど息が切れず、身体が軽い。そうか、これはあいつの身体だ。無駄な肉がない。

 非常階段の白い壁が照明を反射する。まるでどこかの実験室のようで、身がすくんだ。換気の小窓さえなく、目を刺すように明るい非常階段にいると、時間の感覚を失いそうだ。

 途中の踊り場の壁にもたれて、同期が待っていた。昨日の朝、俺たちがぶつかって落ちた場所だ。

「よう」
「おう」

 それ以上の言葉が出なかった。不安と緊張を押し隠し、咳払いをする。

「じゃ、始めようぜ」
 俺の声に、同期が壁から身体を起こした。ふと俺の姿に目を向ける。

「先に着替えるか」
「着替え?」
「俺は念のため、昨日と同じ服装にしてきた」

 同期に目をやる。確かにそれは、昨日の朝に俺が着ていたスーツだった。ワイシャツも、ネクタイも。

「そうしないと戻れないのか」
「俺が知るわけないって言ったろ。念のためだ」

 可能性があるならなんでもしたい。俺はボストンバッグを開けて昨日のワイシャツを引っ張り出した。

「おい、皺だらけじゃないか。ちゃんと畳んでおけよ」
「どうせ洗濯するんだからいいだろ」

 同期はボストンバッグの中を覗き込むと、

「使用済みの下着はちゃんとビニールに入れろよ」
 細かいことを言い始める。

「あーあ、書類が折れてる。ちゃんとファイルに入れてから」
「うるさいな。着替えるんだから見んな」

 俺は同期に背を向け、ワイシャツを脱ぎ捨てた。皺だらけの昨日のワイシャツに袖を通す。

「まずいかな、皺……」
 不安になって呟くと、同期があさってを向いたまま、

「それを言うなら、俺のワイシャツの方は洗濯済みだ。厳密に昨日とまったく同じものを再現するなんて不可能だ」

「そうだな……」

 それに、元とまったく同じではないのはワイシャツだけじゃない。

 昨日から立て続けに起こった出来事が浮かび上がる。そして板野と瀬能はるか。人も変化する。全く元通りには出来ない。

「着替えたぞ」
 スーツの上着を羽織った。

「俺は昨日、スマホは胸の内ポケットに入れておいた」

 同期の言葉に、俺は尻ポケットからスマホを取り出し、スーツの胸元に差し込んだ。反対に、同期は胸ポケットから取り出したスマホを尻のポケットに移動させる。その腕に目をやった。

「これもだ」
 妻からもらった時計を外した。止まったままのそれを同期に渡す。同期も同じように自分の時計を外してよこした。こちらもあの時に止まったままだ。

「俺は、新幹線に乗るために会社を出るところだった」
 言いながら、同期が階段を上がって行った。

「俺は出社したところだった」
 階段を降りていく。同期の足音が遠ざかり、姿も見えなくなる。

 ふと昨日の朝の記憶が蘇ってきた。先週から始めたダイエット。最寄の駅のひとつ手前から歩き、会社ではエレベーターを使わない。

 しかし、もう心が折れかけていた。特に階段がきつい。初日は楽勝だと思っていたが、日を追うごとに腿の筋肉に疲労が蓄積され、足がだるかった。

 あの時は、あと一階分で自分のフロアに着くというところで立ち止まり、手すりに捕まったまま息を切らしていた。次の足が出ない。

 くそ、これでも元野球部かよ。

 なんだか悔しくなってきた。若い頃はスタミナに自信があった。中学、高校と六年間、練習を休んだことはない。それが自慢だった。

 若い頃ったって、たった十数年前のことだ。今だってまだ三十代だぞ。こんな体たらくで、子供たちを一人前に育てられるか。

 俺は息を整えると、最後の一階分をダッシュで駆け上がった。雨の日の室内練習を思い出す。「声出せー!」という野球部時代のかけ声が耳に蘇った。

 もうすぐたどり着くと思った瞬間、突然目の前に同期が現れた。俺はバランスを崩し、とっさに掴みかかってしまった。

 同期はボストンバッグを放り投げながらバランスを取ろうとしたが、遅かった。俺たちは団子になって階段を転がり落ちた。


「そうだ、あの時──」


 言いかけて、俺は同期の姿を求めて上に目をやった。けれども階段はカーブになっていて、踊り場の先は見えない。けれどもきっと、同期も同じことを思い出しているに違いない。


 転がり落ちていく時、おかしな現象が起きた。まるでフラッシュのように強い光が周囲に刺したのだ。とっさに目を瞑り、自分がどこへ向かって落ちているのかわからなくなった。


 ──死ぬ。


 そうだ、あの時確かにそう感じた。けれども、実際には怪我ひとつしていない。

「まさか……」
 呟きが口から洩れる。ぞわりと寒気がした。

「おい、準備は出来たか」
 同期の呼びかける声が、壁に反響して伝わる。

「……ああ、大丈夫だ」

「じゃあ、そっちからスタートしてくれ」

 俺はごくりとつばを飲み込むと、息を吸い込み、一気に階段を駆け上がった。

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