【小説】日曜日よりの使者 第13話
第13話
外はすっかり暗くなっていた。星はひとつもないし、月は半分雲に隠れている。自分の足元がかろうじて見えた。
もと来た道を辿っていく。一本道でなかったら迷っていただろう。
空気は湿って重く、風もない。
静寂が耳に痛い。まだ明るかった往路では気づかなかった。
ポケットに手を入れた。そこにスマホが入っていることを思い出し、取り出す。
タップした。しかし画面は暗いままだ。
「ねえ」
一瞬の沈黙に、しみのような不安がぽつんと胸に落ちた。あっという間に心を覆いつくす。
スマホと会話できたと思ったのは、ただの妄想? だとしたら、僕の頭がおかしくなったのか。
「聞こえる? 僕の声」
『……はい』
スマホが応えた。その声にホッとする。
それと同時に、また不安が湧いた。ひょっとすると、スマホの声が聞こえているのだと思い込んでいるのは自分だけなのか。本当はもう僕の頭はとっくにおかしくなっていて、充電が切れたスマホに話しかけているだけなのかもしれない。
『どうなさいましたの』
「いや、ええと……」
言葉に詰まった。用事を思い出そうとしたが、最初からそんなものはなかった。ただ心細くて声をかけただけだ。
「ここから、まだまだ相当かかるよね」
半分独り言のように呟き、暗くて見えない道の先にある家のことを思った。ここまで来るのに半日かかっている。
太ももは痺れて、砂が詰まっているかのように重かった。その上、暗くて足元はよく見えない。慎重に歩を進めていると、痛む足首に余計に負荷がかかる。
「このまま、朝までかかるかな……」
考えただけで気が遠くなる。
『わたくし、その質問に答えて差し上げることができませんの』
僕のつぶやきに、スマホが返答した。
『位置情報は取得できませんのよ』
責めるつもりではなかったのに、申し訳なさそうな声を出されて焦ってしまう。
「大丈夫だよ。どうせ道は真っ直ぐなんだし」
『充電もないので、ライトにもなりません』
手元が照らせたら便利なのに。そんな考えを言い当てられた気がした。
『お役に立てず───』
「いいんだよ。それより、さっきの話、聞いてたよね。どう思った」
話題を変える。三軒目の住人を思い浮かべた。
彼との会話は気まずいまま終わった。冷めてしまったパスタを僕が食べ終わるが早いか、空の器をさっと手に取り、
『それじゃあ、悪いけど調査の続きがあるから』
そう言って立ち上がった時の目は、もう僕を見ていなかった───。
『どう、とおっしゃいますと』
「ちょっと変な人だったよね。最初は、やっと普通の人と会えたと思ってうれしかったんだけどな」
『変な人……』
スマホは僕の言葉をくり返してから、
『それは、どのような観点で』
困惑した声で尋ねる。
「あ、ええと、つまり」
『普通の人の基準は』
「いや、ごめん。もういいよ」
語尾をひったくるように言った。少し乱暴だったかもしれない。スマホは一瞬だけ黙り、
『すみません、あなたの質問に対する妥当な返答ができません』
やけに機械的に言った。冷たい口調に聞こえる。
「いや、あの。ごめんよ、そんなつもりじゃ」
慌ててそう言ったが、スマホは黙ったままだった。画面が暗いままなので、こちらの声が届いているのかどうか判断がつかない。
ぽつん。なにかが僕の頬を打つ。次の瞬間、スマホの画面の真ん中に大きな水滴がついた。
「あっ」
真っ黒な空から、雨粒が落ちてきた。服の袖で画面を拭っても、次の雨粒が画面を濡らす。あっという間にどしゃ降りになった。
「やばいな」
僕はスマホを守るように手のひらで包み込んだ。
『わたくしは防水機能を備えておりますから問題ありません』
手の中からくぐもった声が聞こえてくる。
「そうか、よかった」
スマホをポケットに入れ、道を急いだ。歩く僕の顔に向かって雨が降り注ぐ。額を流れてくる水が目に入りそうになる。
手で顔を何度も拭いながら、薄目を開けて必死で前に進んだ。
全身がびしょびしょで、身体はますます重くなる。また脚の付け根に刺すような痛みがした。体中がぎしぎしと悲鳴を上げている。
体中が冷えきっていた。身体の芯からぶるりと震えが起こった。歯の奥がガチガチと音を立てる。頭とずきずきする。
耳と両手の指が、冷たすぎて痛い。口元に手を持っていき、息を当てる。雨のせいでうまく温まらない。
頭上では雷が鳴り始めた。聞いたことのないような大きな音がするたび、怖くて首をすくめた。地面がびりびりと震える。
このまま朝まで歩き続けることなど、できるだろうか。
引き返すには遅すぎる。もうかなり歩いてきてしまった。とはいえ、
『やめて! 助けて!』
そう言って僕から逃げようとした、あの二軒目の家に住んでいた男性に助けを求めても、きっと無理だろう。
焦る気持ちで足を速めた。幸いにも、濡れた道がわずかな光を反射して光っている。
その時だった。
「あっ」
右のふくらはぎに違和感を感じたと思った次の瞬間、激痛が走った。濡れた地面の上に尻をつく。
「痛い痛い痛い……!」
右足に手を添えた。しかし、足の痛みは鋭くなる。筋肉が痙攣のようなものを起こしている。
「あっ……」
足がつったのだとわかった。うめき声を上げながら、両手で足を押さえる。硬くなったふくらはぎがびくびくと動いている。まるでなにか別の生物が入り込んで暴れているのかのようだ。
全身から汗が噴き出す。雨で濡れた顔に、汗と涙が混じった。そのまま身動きもできない。
どのくらいじっとしていただろう。痛みは最初よりも小さくなり、やがて遠ざかっていった。
時間をかけてそっと立ち上がった。痛みは引いたが、まだ違和感が残る。
足を引きずり、前に一歩踏み出してみた。しかし、怖くて力を入れられない。さっきの痛みの残像のようなものが、いつでも戻ってこれそうな位置に居座っているのがわかった。それと同時に、忘れていた寒さが戻ってくる。汗で濡れた背中が冷たくなっていた。
もう、ダメかもしれない。
そんな考えが頭をよぎる。
地面にゆっくり膝をついた。足を押さえていた両腕が、だらりと地面に落ちる。雨が容赦なく打ちつけた。
死ぬかもしれない。
まるで眠くてどうしようもない時のように脳が痺れて、なにも考えられない。
目を閉じた。
『いけません! 立って下さい!』
ポケットの中で、スマホが叫んでいる。
『このままでは危険です!』
瞼が重い。
耳も良く聞こえない。
『起きて!』
さっきまでの身を切るような寒さの代わりに、どんよりとした眠気が柔らかく僕を包み込む。
『……!』
もうなにも聞こえない。
その時だった。強い光が瞼を通して僕の瞳を刺した。驚いて目を開けると、遠くから僕に向かって真っすぐ、二つの光が近づいてくる。
それは僕の手前で止まった。エンジンの音が止まり、運転席から使者が降りてきた。
「お乗りください」
そこから、どうやって車に乗り込んだのか、よく覚えていない。
気づいた時には、僕の家の前に着いていた。促されて玄関へ入ると、使者がそっと沓脱になにかを置いた。道の途中で脱いで置いてきたはずの僕のサンダルだった。
「いかがでしたか」
使者の声に顔を上げる。
「気が済みましたか」
僕は頷いた。まだ身体が重かった。使者が微笑む。ほっとしたようにも見えた。
「それでは、本日はこれで」
一礼し、扉に手をかけた使者の背に向かって、僕は言った。
「元の世界に戻りたい」