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【小説】烏有へお還り 第30話
第30話
「亡くなってるって……」
柚果が呟いた。まだ青い顔をしているさな恵を椅子に座らせる。
「その『吉川さん』って人が、ですか」
十年前。さな恵はそう言った。『屋上から飛び降りた女の子の下敷きになって』という言葉から、その光景を想像してぞっとしたが、浮かんできた疑問が恐怖を退ける。
「だって、大翔はその人に会ってるんでしょう」
部屋から話し声がしたのは先月だ。十年前に亡くなっている人物に相談できるはずがない。
「十年前に亡くなった『吉川さん』と、大翔が相談した相手と、名前が同じってこと? あ、でも顔も」
さっき見せてもらった写真を思い出す。弟が指した女性は優しそうで、年齢はちょうど今のさな恵と同じか、わずかに年上くらいだろうか。
「同じ人……じゃないですよね……」
さな恵と弟の顔を順番に見つめる。弟はうつろに目を細めたままなにも言おうとしなかった。さな恵は落ち着きを取り戻したように息をつくと、顔を上げる。
「まさか、とは思ってたんだけど」
ぽつりと呟いた。両手を握り合わせながら、
「前に、わたしがスクールカウンセラーに行っていた学校に、ある女の子がいたの」
古い記憶を引き出すように、宙を見上げる。
「その子は体調が良くなくて、学校に来られない日が多かったから、あまり話すこともできなかったの。気になっていたんだけれど、卒業式にも来られなくて」
さな恵が眉を曇らせる。その時のことを思い出し、心を痛めているのが伝わった。
「その後しばらくして、自宅のお風呂場で亡くなったという知らせをもらったの。お線香をあげに行った時に聞いたんだけど、その子が最期に書き残していたのが……」
『ありがとう、吉川さん』
「それって、さっき言っていた『吉川さん』が亡くなる前の話ですか?」
柚果の問いに、さな恵が首を振った。
「いいえ、亡くなった後のことなの」
柚果の背中が再びぞわりとする。思わず首をすくめた。
弟に目をやる。聞こえているはずなのに、黙ったままなのが恐ろしかった。この不気味な話を笑い飛ばしてほしいのに。
不意に着信音が轟いた。驚いて飛び上がる。さっきまで握りしめていたはずのスマホが、窓枠の上で鳴り響いていた。
急いで手に取る。画面を見て目を瞠った。『筧由利香』とある。母だ。
「はい、もしもし!」
タップして柚果が叫んだ。しかし相手は沈黙している。
「もしもし、お母さん!?」
もう一度大きな声で呼びかけると、
『柚果』
聞こえてきた声にぞっとして飛び上がった。男の声だ。慌てて画面を見直すが、間違いなく母だ。
『俺、和志だけど……』
「えっ」
驚いて声が裏返った。「和志くん?」
どうして、と尋ねる前に、和志が続けて言った。
「今、生涯学習会館の裏にいるんだけど、きみのお母さんがここにいる」
「えっ」
混乱し、手で頭を支えた。無意識のうちに、さな恵や弟が目に入らない白い壁に向き直る。
「でも、なんだか様子が変なんだ」
和志の言葉に心臓が縮み上がる。さっき感じた嫌な予感がざわざわと蘇った。
「変って、どんな風に?」
「それが……」
言いかけた和志が言葉を切り、「あっ」と小さく叫んだ。
「どうしたの?」
スマホの画面に向かって尋ねるが、返事がない。
「和志くん、どうしたの!?」
柚果が叫ぶ。後ろでさな恵や弟が目を瞠った。不思議そうに見守っている。
「ごめん、見失った」
和志の声が聞こえた。息を弾ませている。
「どこに行ったんだろう……雪のせいでよく見えない」
「今、そっちに行く」
柚果は急いで言った。「和志くんごめん。急いで行くから、お母さんのこと探して」
タップして、スマホをポケットに入れた。さな恵と弟に向き直る。
「友達がお母さんを見つけてくれたんですけど、またいなくなっちゃったみたい。ちょっと行ってきます」
駆け出そうとする柚果の腕を、さな恵が掴んだ。
「お母さん、どこにいるの」
「生涯学習会館にいるみたいです」
詳しいことはわからないが、和志が教えてくれた。電話では伝えられなかったが、感謝の気持ちがじわりと胸に広がる。
「わたしも一緒に行くわ」
さな恵が言った。「こんな状況で柚果ちゃんを一人にさせられない」
柚果とさな恵がベッドを振り返る。弟は力強く頷くと、
「僕は大丈夫。お母さんのことお願い」
と言った。柚果も頷く。
「タクシーで行きましょう。そうすればすぐだから」
さな恵と共に、柚果は病室を飛び出した。