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【小説】日曜日よりの使者 第8話
第8話
ソファに転がった体勢で目を開けた。額の上に乗せられた腕が、視界を半分遮っている。
天井の明かりをじっと見つめていると、透明な線虫のようなものが、ゆっくり落ちてくる。焦点を充てようとすると、線虫は素早く視界から外れようとする。
テレビは静かに部屋の隅に収まっていた。目を閉じると、充分な眠りを与えられているはずなのに、じわりと意識が薄れそうになる。
遠くから低い音が近づいてきた。この世界で、外から響いてくる唯一の音だ。
ソファから半身を起こし、耳を澄ませる。エンジンの音で間違いない。心臓が強く胸を打ち、みぞおちの辺りが苦しくなった。胸に手を当てる。
立ち上がり、ゴミ袋を手にして玄関へ向かった。車のドアを閉める音が響き、やがてドアノブが回された。鍵は最初からついていない。
「おはようございます」
玄関に立ち尽くしている僕を見て、使者は驚いたように目を瞠ったが、すぐににこやかに挨拶した。
「これ」
集めたゴミの入った袋を差し出す。袋には半分も溜まっていない。ここ最近、食べることに意欲が向かなくなっていた。
使者は袋を受け取って足元に置くと、手にしていた大きな籠を開けた。
「あのさ、お願いがあるんだ」
籠の中身を食品庫に片付ける使者の背中に向かって言った。
「これを使えるようにしてほしい」
僕の言葉が聞こえなかったかのように、使者は自分の作業を終えてからゆっくりと振り返る。
僕は手の中のスマホを彼に向けた。今は完全に沈黙している。けれども、この国に来た時はまだ充電が残っていた。それなのに、どのアプリも起動しなかったのを覚えている。
しかし画面はちゃんと映っていたということは、故障していないのは間違いなかった。ひょっとしたら、妨害電波でも出ているのかもしれない。
「申し訳ありません。それはできません」
使者が言った。口調はいつものように穏やかだったが、目の奥は笑っていない。
「どうして」
「規則ですので」
規則。その言葉を聞いたのはこれで二度目だ。
『それが規則ですので』
あの時、使者が言った。日曜日の国へ向かうために乗り込んだバスの中で。僕ともう一人の男が同じバスに乗ろうとした時に。
「あの人……そうだ、あの人に会いたい」
顔はよく思い出せない。くたくたのTシャツに毛玉だらけのジャージを履いていた、ひょろりとした男性。
「あの人はどうしてるの」
たった一度会って話しただけの相手なのに、とても懐かしい気がした。今の僕に最も近い人。もう一人の僕。
「あの人は今どこにいるの。この日曜日の国にいるの」
使者はじっと口を結んでいたが、
「はい」
僕の問いを無視し続けられなくなったのか、仕方なさそうに頷いた。
「本当!? どこなの、この近く?」
今すぐにでも飛び出しそうな僕に、
「いいえ」
使者が強く首を振った。
「ここから、かなり離れた場所です」
「それなら連れてってよ」
「申し訳ありませんが、それはできません」
使者がきっぱりとした口調で言った。これまで聞いたことのない強さに、僕は怯えて肩をすくめた。
しかし使者は相好を崩して穏やかな笑みを浮かべると、それ以上僕がなにか言うのを遮るように頭を下げた。この話はもう、これでお終いというように。
「……それも……規則ってわけ」
「はい、そうです」
「いいじゃないか、なにもしない。ただ会って話すだけだよ」
使者が首を振る。
「原則的に、日曜日の国では住人同士が話してはいけません」
「どうして」
まるで僕が不思議な問いを投げかけたかのように、使者はわずかに目を瞠り、ふっと笑った。
「日曜日の国に『出会い』はないのです」