
【短編小説】徒労の人 ~なぜ書くのか~ 第7話
第7話
「ほら、なにぼんやりしてんだい」
鋭い声に、一瞬にして夢想が弾けた。手にしていた算盤が銭桝にぶつかり、音を立てる。
帳場格子の向こう側に、額に汗をにじませた母の姿があった。その横には、小上がりに置かれた背負子が見える。
母が戻ったことにちっとも気づかなかった。慌てて駆け寄り、小上がりに腰かけて手のひらで顔を扇いでいる母の横で、背負子から次々と本を出していく。
「お母ちゃん、これどうだった」
腕に抱えていた中から、一冊を手にして母に向けた。あねさんかぶりの手拭いを外しながら、母がふんと鼻を鳴らす。
「いたくお気に召したようだね。またこういうのが読みたいってさ」
口調こそぶっきらぼうだが、珍しく手放しで仕事ぶりを褒めてくれている。あたしは口元が緩むのを抑えられなかった。
貸本屋は客が好みそうな本を見繕って配達する。回収する際、また次の本を選んで持っていく。
うちのお得意さんは二百以上いる。薦めた本を客に気にいってもらえることは、貸本屋にとってなによりの喜びだ。
父が身体を壊し、店に出られなくなってから、母とあたしと弟の三人で力を合わせてなんとかやってきた。
本来なら、本を選ぶのも配達するのも店主がやる。けれどもうちはあたしが本を選び、配達と回収は母と弟がやることになった。
父の秘蔵っ子で、子どものころから父が仕事するのをずっと横で見てきたあたしだ。
「あそこの手代さんは軍記物好き」
「黄表紙好きな若い後家さん」
面白半分に父から聞いた話は、全部頭に入っている。
「鳶屋のくじは外れなし」
洒落好きの江戸っ子が、うちの屋号である鳶「とんび」と「富くじ」を引っかけて言う。そんな父を誇らしく思っていたし、なんとしても店を守りたかった。
一杯の冷たい水を奥から汲んできて、母が飲んでいる間に本を店の奥の棚に積んだ。いくつかを店頭の斜台に並べる。
「あとで、お父ちゃんに薬を作ってやっておくれ」
次の本を背負子に詰めると、母は大きく息を吐いてから、よっこらしょ、と威勢よく担いだ。一瞬、足元がふらつく。曲がった背中を見て、代わってやれないことに心が痛む。
「お父ちゃん、入るよ」
唐紙を押しやると、父がこちらに顔を向け、目元を緩ませた。
「店はどんな具合だ」
手を添えて半身を起こしてやると、父は少しむせてからそう尋ねた。
「上々だよ」
いつものように言った。「そうか」と呟き、両手で茶碗を持つと、湯気の上る薬湯をゆっくりすする。
「早く良くなんねぇとな」
独り言のように呟く横顔をそっと見た。目のあたりがすっかり落ちくぼんでいる。
「このままじゃお前も、安心して嫁にも行けねぇ」
「なに言ってんの。あたしがお嫁に行ったら、誰が本を選ぶのよ」
まだ弟には無理だ。任せられるのは、せいぜいが力仕事だ。
父はなにも言わず、寂しく笑う。
「いっそ、あたしが婿を取るのはどうだろう」
弟も嫁取りしたら、店を大きくしたっていい。家族だもの、力を合わせてやっていけるはずだ。
「そしたら、お父ちゃんとお母ちゃんは田舎に隠居部屋を借りてゆっくりしたらいいよ」
父がなにも言わない分、余計なことまで口をついてしまう。
『お前、仕事の最中になにしてんだい』
この前、隠しておいた紙束を母に見つけられた。書き損じの紙の裏に、頭の中で思いついた物語を書き込み、集めておいたものだ。
『いいでしょ、別に』
慌てて取り返す。母はふんと鼻を鳴らすと、
『女がね、学問なんて必要ないんだよ!』
頭ごなしに言う。
『学問じゃないよ。あたし、物語を書く人になりたいんだ!』
ついそう言い返し、たちまち後悔した。母は目を剥き、馬鹿にしたように、
『女がそんなもんになれっこないだろ』
『なに言ってんの。うちにある清少納言も紫式部も、女じゃないの』
客のところから戻ってきた弟が、怪訝な顔でこちらを見ている。
『馬鹿言ってら』
母がぷいと背を向け、箒を手に店先を掃き始めた。
奥へ駆け込み、紙束をそっと開く。書かれた物語を読み返しながら、しわを伸ばした──。
「ねえ、お父ちゃん」
薬湯を飲み終えた父の背を支え、布団に横たえる。よれたかい巻きを引っ張り、冷えた肩を包み込んだ。
「もしうちの店にあたしの書いた本があったら、いい宣伝になると思わない?」
新しい本を刷るための板版も揃っている。難しい話じゃない。
「思わないね」
いつの間にか、後ろに母が立っていた。
「なにが『本を書く』だ。馬鹿も休み休み言いな。そんな女、嫁の貰い手なんてありゃしないよ」
最後まで聞く前に、あたしは部屋を飛び出した。店先で下駄をつっかけ、表の通りを走り続けているうちに、見慣れた橋まで来ていた。欄干に手をつき、隅田川を眺める。
時代が悪い。
はるか昔、女が物語を書くことができたのはきっと、今みたいにお武家さまがいなかったからだ。
『源氏物語』のような華やかな宮廷文学にも憧れる。けれど初めて『落窪物語』を読んだ時の衝撃はうまく言い表せない。それほど心が騒いだ。
主人公の落窪がどうなってしまうのか、はらはらしながら読み終えた時は、これまでの何百年の間にこの物語を読んで心をときめかせていたたくさんの女たちと、手を取り合えたような気がした。
とうの昔にこんなすごい物語を書いていた女たちがいた。そう考えると胸が熱くなる。
どうして自分はその時代に生まれなかったのか。そうすれば彼女たちと同じように、女文学者として名を連ねることができたかもしれなかったのに。
いや、きっとそれだって限られた存在だ。庶民は日々の生活を送るだけで忙しく、そんな余裕はなかったろう。
それならあたしは、もっと未来に生まれたかった。女だって一人前に生計があって、嫁にいかなくても生きていける時代。女が文学を志しても、誰も笑ったり馬鹿にしたりしない時代。
早くそんな未来がくればいい。
散った桜の花びらが、隅田川の水面を埋め尽くしていた。花筏を押し広げながら、荷を乗せた猪牙船が桟橋を離れていく。
置いてきた仕事が心にかかった。あたしは頬を拭うと、店に向かって歩き出した。