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【小説】烏有へお還り 第26話
第26話
消毒液のつんとした苦い匂いがする。病院の広いロビーを見渡していると、
「柚果!」
父の声に振り返った。スマホを手に駆けてくる顔を見て、不安でいっぱいだった気持ちが和らいだ。
「大翔は」
柚果の問いに、父が力強く頷いた。その途端に、安心して膝から崩れ落ちそうになる。
『たった今、会社に連絡があって、大翔が二階から落ちて病院に運ばれたって……!』
生涯学習会館の裏手で父の電話を受けた時は、目の前が暗くなった。一瞬だけ、本当に意識が遠のいていたのかもしれない。
『もしもし、柚果! 聞いてるか!』
父の声で我に返った。ひとまず病院の場所を聞き、電話を切る。詳しいことはわからないまま、じりじりと病院行きのバスを待った。父は車で向かうため、SNSでやり取りすることもできない。
それでもバスの中で、父からいくつかのメッセージが送られてきた。
『大翔が二階の窓から飛び降りたらしい』
柚果は顔を覆った。心の整理がつかないまま、ただ涙が流れる。
『隣の家の人がすぐに気づいて、通報してくれたんだ』
警察と救急車が家に駆けつけた。弟を病院へ搬送しようとしているところへ、家の前に集まった人だかりをかき分けながら母が帰ってきた。
『大翔!』
半狂乱になった母の代わりに、警察が父に連絡をした。動転した父が、学校ではなく柚果のスマホに連絡したことは幸いだった。
「大翔は病室で横になってる。怪我はしたけど、命に別状はない」
「意識はあるの」
柚果の問いに、父が目元をほころばせた。
「ああ。大丈夫だ」
たちまち顔を歪めた柚果に、父も唇を震わせる。息をついて涙を拭くと、父の案内で弟の病室へ向かった。
「検査するから、今日だけ入院だって」
父に続いて部屋に入る。病院の配慮か、部屋は個室だった。
「大翔」
声をかけると、弟は気まずそうに顔を背けた。その様子で、怪我も大したことがないとわかり、ほっとする。
父と目を合わせた。父もまた、弟にかける声が見つからず、所在なさそうにしている。
「あれ、お母さんは?」
父の問いに、弟はわずかに顔を動かすと、
「さっき、出ていった」
と呟いた。父は「そうか……」と眉を寄せると、
「ちょっと探してくる」
と部屋を出ていった。扉が閉まってから、柚果は弟の顔が見える位置にそっと移動する。
「大翔」
声をかけると、弟は目だけで柚果を見上げた。
「学校でなにがあったの」
その言葉に、弟の肩がぴくりと動いた。
「クラスで、いじめがあったんだって?」
いつかの弟の担任の言葉を思い出す。
『大翔くんが対象ではなかったようなのですが、クラスの中でいじめのようなものが何度かあったそうです』
これまで、弟のことを本気で心配してやらなかったことを悔やんだ。母に納得がいかないことと、弟を心配することは別だ。それなのに、意地を張っていた。
末っ子らしく、愛嬌がある弟。不登校になるまでは明るくてひょうきんで、柚果と母がぶつかり合うような場面では、家の中の空気が悪くならないようにいつもムードメーカーの役割をしてくれていた。
けれども実は繊細な面もある。テレビの番組で、芸能人がひどい目に遭うようなドッキリ企画を、怖くて見ていられない。
『チャンネル変えていい?』
まるで他に見たい番組があるかのように、強がって言う。弟のそういう部分を、柚果は知っていた。
「わかるよ、大翔の気持ち」
自分がいじめられなくても、目の前で友達がいじめられている場面を見ているのはつらかったのだろう。ひょっとしたら、助けられなかったことで自分を責めているのかもしれない。
「違うんだ」
弟が呟いた。
「違うって?」
柚果の問いに、弟は黙ったままじっと暗い目で天井を見ている。なにも応えない。
もう一度訪ねようと、柚果が口を開いた時だった。
「僕も、一緒にいじめたんだ」
弟が呟いた。柚果が息を呑む。弟の目から一筋涙が流れて、枕に沁み込んでいった。
「どうして」という言葉を飲み込んだ。『柚果ちゃん』と手を振られて、おざなりに手を振っていた自分が浮かぶ。
「消えたいって。自分のこと、消したいって思った。でも、できなくて……」
弟の目から次々と涙が流れた。両手の拳を目に押し当て、嗚咽をこらえている。柚果がその髪に触れようとした時、
「そしたら、大丈夫だよって。ちっとも怖くないよって」
弟が呟いた。その言葉に手が止まる。
「誰が……そう言ったの?」
部屋で誰かと話しているかのように、独りごとを言っていたことを思い出す。
弟は小さく息を吐くと、柚果をそっと見上げた。
「……吉川さん……」
「吉川さん?」
初めて聞く名前だった。柚果が首をひねる。
「吉川さんって誰」
「……フリースクールの先生だって言ってた」
「フリースクール……」
思い当たるのは、母が弟を連れて見学に行った、生涯学習会館の中にある施設だ。
「見学に行った時に知り合ったの」
柚果の問いに、弟が首を振る。その時だった。
「起きてるかな。検査に行きますよ」
扉が開き、看護師が部屋に入ってきた。柚果がベッドから離れると、足に包帯を巻いた弟を彼女がてきぱきと車いすに乗せた。
廊下の向こうへ運ばれていった弟と入れ替わりに、父が戻ってきた。険しい顔をしている。
「お母さん、こっちに戻ってきた?」
父の問いに、柚果が首を振った。父は手の中のスマホに目をやりながら、
「おかしいな。どこにもいないし、連絡がつかない……」
小さく呟く。柚果の胸がざわついた。弟の自殺未遂に、母がショックを受けないはずがない。
「ちょっと家に戻ってみるから、柚果はここにいてくれる」
そう言い残し、父が駆けていく。柚果は家の方角を探すように、病室の窓から外を眺めた。雪は本格的に降り始め、街を白く染めていた。