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【短編小説】捨て猫リカ 第8話
第8話
理加からの連絡がないまま二箇月が過ぎ、菜摘はもう理加の話題を出すこともなくなった。
例のサインのことで、クラスの子たちにはなんと説明をしたのか。気になって一度だけ尋ねたのだが、なにも語ろうとしなかった。その様子から、なにか苦い思いをしたようだと察しがつく。
友達とは仲良くしているようだし、食欲もあって元気そうだが、ひとつなにかを学習し、成長したような菜摘の様子を見て、誇らしさと同時に胸は痛んだ。
「待って待って! 先に写真撮らせて!」
仕事帰りの駅前のロータリー。すれ違った女の子が、太いストローの刺さったカップを手に、友達の元に駆けていった。その後ろ姿を見送る。
建物の二階に、初めて理加に会った雑貨屋の赤い扉が見える。らせん階段の下はクレープ屋で、何人かの女子高生たちの姿があった。理加と同じ制服だ。
けれどもそこにいるのは、はち切れんばかりの健康的なふくらはぎをした女の子ばかりだった。友達同士で楽しそうに談笑している。
菜摘を嫌な目に遭わせてしまったことを後悔しているくせに、気づけばあの子の姿を探している。
女子高生たちの嬌声が響く。楽しそうな笑い声。
──あの子には、友達がいるんだろうか。
理加の姿がよみがえった。子供のようなか細い手足、頼りない薄い肩。ぶかぶかの靴からはみ出したかかと。
頬に肉がないために、より大きく見える瞳には、自分に注目して欲しいという願いがあふれている。そのくせ傷つくことに怯えて、必死に自分を守っている。
「馬鹿ね」
呟きが漏れた。半分は自分に向けたものだ。迷っていてなにになるだろう。放っておけないのなら、とことんまでつき合うしかないのに。
スマホの画面を開く。文字を送るのではなく通話を選んだ。呼び出し音が流れる。
既読無視をされた相手に電話をかけるべきではないと、避けてきた。これ以上踏み込むべきではないと。
大人らしい言い訳の裏に、もう一つ別の気持ちがあった──既読無視されて傷ついた。それなのに電話をして、また無視されたくない。
傷つくのを恐れていたのは、自分もまた同じ。
スマホから響く、繰り返される呼び出し音を無意識に数えながら、心の中で呟いた。大人もね、臆病なんだよ。同じなんだよ、理加ちゃん。
コール音が変わった。このまま機械のメッセージ音に切り替わるのだろう。やはり無視か、そうだよね……傷つく前に、そうやって自分を慰めた。
「……はい」
だから次の瞬間に理加の声がした時、驚いて声が出なかった。
「……もしもし……」
戸惑うような理加の声に、慌ててスマホを握りしめる。
「わたしです、貴子です。理加ちゃん……?」
「……はい」
胸がどきどきして、呼吸が浅くなる。
「あの、ごめんね、急にかけちゃって。今ね、駅前にいるの。ずっと連絡ないけど、理加ちゃんどうしてるのかなって」
早口で一気にまくし立てたところで気づいた。電話の向こうで、別の人の声がする。
「あの、理加ちゃん?」
「……はい」
理加は鼻声だった。息づかいが震えている。
「どうしたの? なにかあった?」
「……いえ……」
くぐもっていてよく聞こえない。耳を澄ませると、男性の厳しい声で、
『誰? 親御さん?』
と尋ねる声が聞こえた。ただならぬ様子を感じ取り、わたしは空いている方の耳をふさいだ。電話に当てた耳に意識を集中する。
「どうしたの、理加ちゃん! 今どこにいるの?」
知らず知らずのうちに、声が大きくなった。周囲を歩いている人が、不思議そうにわたしを振り返る。
「いえ、ごめんなさい。なんでもないです」
拒絶の気配。切られてしまう。わたしは必死で叫んだ。
「待って、理加ちゃん! ねえ、なにかあったの!?」
電話の向こうが沈黙した。
「貴子さん……」
呟きに続いて、鼻をすすり上げる音が聞こえる。
「なあに? どうしたの?」
辛抱強く尋ねた。息をつめ、電話から聞こえる声に耳を澄ませる。
「わたし、今、駅前のくまがい書店にいるんです……」
「くまがい書店?」
拍子抜けした。その方向へ目をやる。ここから近い。
「お店にいるってこと?」
「あの……奥の、従業員さんのお部屋にいます……」
ピンときた。トートバッグの紐を肩にかけ直す。
「わかったわ。今すぐ行く」
「いえ、でも……」
迷うような理加の呟きを制して、
「行くわ」
力強く言った。理加が嗚咽を漏らす。
「いちど切るからね。大丈夫よ、すぐに行くからね」
なだめるように言うと、わたしはスマホをバッグに入れ、書店への道を駆け出した。