【小説】もうひとりの転校生 第11話
第11話
「いかがですか」
背後から声をかけると、男性は驚いたように飛び上がった。
「失礼しました」
慌てて頭を下げると、
「いえ、こちらこそ」
振り返りながら男性が苦笑いした。よく見ると、意外と若い。
「これは最新のものですか」
彼がガラスケースの奥を指差した。
「ええ、そうです」
言いながら、釣られて俺も目を向ける。マネキンが身に着けているのは、来年の国際大会、ひいては次のオリンピックでうちの社名を高めてくれるはずの競泳用スイムスーツだった。ケースには特許出願中のラベルが貼ってある。
「こちらは非売品なのですが、特別に展示させていただきました」
心なしか、声が上ずった。抑えようとしても、誇らしい気持ちがあふれてしまう。
「身体への負担を軽減し、軽量性にも伸縮性にもすぐれております」
俺の言葉に、男性はほう、と感心したように頷いた。ガラスケースに鼻の先がくっつきそうなほど近づいている。
「実は以前にも、こちらの会社の競泳用のスイムスーツを拝見させていただいたことがあるんですよ」
彼の言葉に、俺は改めてその男性の顔に注目した。見覚えはないが、業界の関係者だろうか。今日来訪する予定のリストに思いを巡らせる。
「少しデザインが変わりましたよね」
「ええ、この部分のフォルムが変わりまして、それから以前のものとは素材も違うんです」
半分だけうわの空で応えた。男性の胸元に下がっているホルダーに目をやるが、紐がよじれているのか、ひっくり返って裏になっており、社名と名前が見えない。
男性はますます興味を引かれたように、スイムスーツに視線を注いでいる。
「手触りが知りたいな……」
独りごとのように呟いた。恥ずかしそうに、握った拳を鼻に当てると、
「申し遅れました。わたしはスポーツクラブのコーチをしている者です。今はジュニア選手を育成しているところなんですが、水着選びに難航しておりまして」
「なるほど」
俺はポケットから鍵を取り出すと、ガラスケースを開けた。マネキンからスイムスーツを外し、
「どうぞ、お手に取って下さい」
男性に差し出した。彼は手触りを確かめ、それから生地を縦と横に向かって引っ張った。
「従来のものより、伸縮率が5%もアップしてるんです」
「うーん、これだけじゃわからないな。よかったら、以前のものと比べさせていただいていいですか」
「ええ、少々お待ち下さい」
展示はしてないけれど、確かどこかの荷物の中にあったはずだ。俺はバックヤードから目当てのものを探し出すと、急いで元の場所へ戻った。
しかし、男性の姿がない。待っている間に、他の展示を見ているのだろうか。
ふとマネキンに目をやった。空いたガラスケースの中で、白い裸体を晒したままだ。
嫌な予感がした。考えがまとまらないまま、それでも本能的に会場の出口へ向かった。ずっと先の方で、他のブースの間をすり抜け、早歩きで立ち去ろうとする黒い背中が見えた。
「あのっ……」
雑踏にかき消され、俺の小さな声は届かなかったはずだ。しかし男はびくりとして振り返った。一瞬だけ目が合う。男は完全に、これまでの穏やかな仮面をかなぐり捨てていた。血走った目を俺から背け、走り去ろうとする。
だが次の瞬間、男は前から荷物を抱えて走ってきた人間と激しく衝突した。
「ごっ、ごめんなさい!」
瀬能はるかが尻もちをつきながら叫んだ。彼女の運んでいた段ボールが足元に転がる。男は完全にバランスを失い、床に手を着いた。それを見た俺の喉から、固まっていた声が飛び出した。
「そいつ、つかまえて! 泥棒だ!」
慌てて立ち上がろうとした男は「すみません」を繰り返す瀬能はるかと、足元の荷物に邪魔されて動きが遅れた。フロア中の人たちが俺を見てから、次に男へ目をやった。
男は慌てて瀬能はるかを突き飛ばし、駆け出した。
「逃がさないで!」
叫びながら、俺は男に向かった。その時だった。地面に転がされた瀬能はるかが、とっさにその男の片足にしがみついた。
「瀬能さん!」
うつ伏せに倒れた男が、瀬能はるかを思いっきり蹴飛ばした。「あっ」と叫び、彼女が顔を抑えてうずくまる。
男がふたたび立ち上がって駆け出す。俺はその足に飛びついた。男がまたうつ伏せに倒れる。
暴れる男にしがみついていると、頬を押さえてうずくまっていた瀬能はるかがぱっと立ち上がり、男の背中に覆いかぶさった。しかし、すぐに振り落とされる。
男の靴に何度も蹴られながら、俺は、
「手を貸せ!」
後ろに向かって叫んだ。やっと後輩たちが駆けてきて、男の肩を地面に押しつけた。
「前田さん、どうしたんですか」
体格の大きな太田に任せて、俺は息を弾ませながら立ち上がった。体中がずきずきと痛い。
「スイムスーツを……」
一瞬、これが勘違いだったらどうしようという迷いが頭を駆け巡る。しかし、男のズボンのポケットは不自然に膨らんでいた。引っ張り出すと、スイムスーツに間違いなかった。
「これを盗られたんだ」
後輩たちが目を剥いた。組み伏せられている男に視線を移す。
「こいつ、誰ですか」
「さあ」
俺は首をかしげた。これから一体どうしよう。やはり警察に連絡すべきか。
「板野くん……」
呟きが降ってきた。見ると、名古屋の支店長が佇んでいた。地面に横たわる男をじっと見つめている。
板野と呼ばれた男はわずかに反応したが、無言のまま抵抗をやめ、だらりと力を抜いた。
「前田さん」
スマホを取り出そうとする俺の肩に、名古屋の支店長が手を置いた。
「警察に連絡する前に、彼と話をさせてもらえませんか」