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【短編小説】望月のころ 第4話
第4話
「ああ、降ってきましたね」
担当の飯田氏の声に、僕は手元の書類から顔を上げた。窓ガラスにぽつりぽつりと雨粒が打ち付けられている。
出版社を訪ねていた。来年に刊行予定の本の装丁について、打ち合わせをするためだ。
「如月さん、傘は持っていますか」
飯田氏が尋ねた。首を振る。雨は夜半からという予報だったし、家を出た時もそんな気配はなかった。地下鉄の駅を降りて地上に出た時に空が暗く陰っていたので驚いた。
「よかったらお持ちください」
僕の返事を待たず、飯田氏が腰を上げる。
「いえ、大丈夫です」
慌てて制止したが、飯田氏は僕の遠慮を微笑で受け止めると、
「誰かが置いていった傘がたくさんあるんですよ。持ち主がわからないものですから、使い終わったらそのまま捨てていただいてもいいですよ」
と言ってパーテーションの向こうへ消え、それほど古くなさそうな黒い傘を持って現れた。
ありがたくお借りして、駅までの道を歩く。傘は広げる時にパリパリと音を立てたが、作りはしっかりしていた。
『雨の日の匂いって好きなの』
そんな言葉が耳によみがえる。高校生の時だ。あの時も、急な雨だった。
『だって、トウモロコシを茹でる匂いに似てるでしょ』
彼女の言葉に、その場にいた二人は大笑いした。『えー、トウモロコシ?』『全然似てねぇよ』『雨が甘いってこと?』『お前、腹減ってんじゃねえの』騒ぐ二人に場の空気を制されて言えなかった。自分もずっと同じことを感じていたと。
マンションにたどり着き、冷蔵庫からペットボトルの水を取り出して一口飲んでから、窓の外を眺める。
雨足は決して強くなかったが、それだけにすぐには止みそうになかった。
カレンダーに目をやった。続いて時計を見る。もう一口飲んでからふたを閉めて戻すと、僕は玄関に向かった。下駄箱の上の車のキーを手に取り、濡れた革靴を玄関の隅に寄せた。代わりにスニーカーに足を入れる。
駅に向かう道路はいつもより混んでいた。何台か前に、バスが停まっているのが見える。急な雨のせいか、とても混んでいるようだった。
駅前の大きなロータリーでは、バス乗り場とタクシー乗り場に長い列ができていた。新しく電車が到着したのか、駅からたくさんの人が出てきて、その列に加わっていく。傘を持っていない人たちは、手で頭を庇いながら走っている。
どきんと胸が鳴った。人々が去ったその奥に、大きな荷物と小さな子供を抱えた女性が立っていた。反射的にドアを開けて叫んだ。
「望月さん!」
とっさに口から出た名前は、ひどく僕を動揺させた。それでも、躊躇している暇はなかった。彼女が瞠った目をこちらに向けた。
「こっち。荷物持つよ」
駆け寄った僕に、まだ状況をつかめないさくらが戸惑ったように、
「あ、ありがとう。えっと……武、いるの?」
と尋ねる。
「いや。僕がたまたま」
とっさに口に上った言い訳は、続きを考える前に止めた。
「待ってて。傘、取ってくる」
荷物だけを手にして、ロータリーに停めっぱなしの車に引き返した。