【小説】烏有へお還り 第11話
第11話
玄関のベルが鳴り、柚果は本から顔を上げた。
「すみません、わざわざご足労いただいて」
「いえ、こちらこそ申し訳ありません。お忙しいお時間にお邪魔して」
ドアの向こうに耳をそばだてていると、玄関から母と誰かの声が響いてくる。
足音と声は廊下を進んでいった。リビングのドアが閉まる音がして、静かになる。部屋のドアを細く開けて階下の様子を窺うと、パタパタと足音が近づいてきた。慌ててドアを閉じ、飛ぶように勉強机に戻る。
しかし足音は柚果の部屋ではなく、弟の部屋の前で止まった。
「大翔、ちょっといらっしゃい。大内先生と、カウンセラーの先生がいらしたから」
母の声が聞こえる。しかし弟の返事は聞こえなかった。しばらく宥めすかす声が続いたが、やがて諦めたように、母の足音が遠ざかっていく。
柚果はもう一度ドアを開けた。廊下に出て隣の弟の部屋に目をやるが、中からはなにも聞こえてこない。けれども、部屋の中で弟が息をひそめて外の様子を窺っているような気がした。
足音を忍ばせながら階段を降りる。耳を澄ませると、内容は聞き取れないが、リビングで誰かが話している響きだけが伝わってきた。
玄関に並んでいるのは、男性用の革靴と、女性用の踵の低いパンプスだった。リビングの扉の前を通り過ぎ、廊下の奥へ進むと、キッチンにつながる扉がある。開けっ放しになっていたその隙間に身体を滑り込ませて、カウンターの中に身をひそめた。
ダイニングとリビングは二間続きになっており、隔てる扉はない。少しずつ耳が慣れてきて、カウンターに隠れている柚果にも会話が聞こえてきた。
「ご心配をおかけして、本当に申し訳ありません」
母の声だった。さっき言っていた『大内先生』とは、おそらく弟の担任だ。一昨年まで弟と共に通っていた小学校の先生だ。
「いいんですよ、お母さん。それより、どうですか、最近の大翔くんの様子は」
受け持ちの学年が違ったので接点がなかったが、顔だけぼんやりと覚えている。比較的若そうな男性教師だった。
「食事は普段通りしています。けれどもそれ以外は……話をしようとしても、部屋に逃げてしまって」
母の声が消え入りそうになる。
「そうですか。そろそろ学習面なども、ちょっと気になってきますね」
担任はそこで一旦言葉を切ると、
「長く学校に来ないでいると、大翔くんにとってハードルが上がってしまって、ますます来にくくなってしまうかもしれませんね」
と続けた。母が「そうですよね……すみません」とますます声を落とす。
「でもね、そんなに心配しないで下さい。そうやってお母さんが暗い顔をしていると、大翔くんがますます居場所を失ってしまいますよ」
担任がそう言って自分で笑った。場の雰囲気とちぐはぐな気がして、柚果は白けた気持ちになる。
「それでですね、大翔くんとしてもいきなり教師へ戻るのは抵抗があるでしょうから、まずは保健室登校から始めてみるのはどうでしょう」
「保健室登校……ですか……」
母が戸惑ったように呟いた。
「ええ、登下校の時間もずらして、他の児童たちと顔を合わせないようにします。そこから、徐々に慣らしていこうと思っています」
もう一人の先生の声は聞こえない。担任が話を進めていく。
「そして教室復帰ですが、思い切って六年生の春を目標にしましょう」
その言葉に、母が小さく「えっ」と呟いた。
「あのぅ、まだ二学期ですけれど……三学期からというのは無理なんでしょうか」
「いやいや、お母さん。焦りは禁物ですよ。それより、六年生になったらクラス替えもありますし、大翔くんも新しい気持ちで学校に来ることができるはずです」
根拠のない無責任な言葉に腹が立った。そもそも、弟がなぜ不登校になったのかもわからないのだ。
「わかりました。よろしくお願いします」
母が答える。柚果はそっと天井を見上げた。二階の自分の部屋にこもっている弟は、どんな思いで過ごしているのだろう。
「すみません、ちょっとだけいいですか」
透明な声が耳に届く。聞き覚えのある声に、柚果は顔を上げた。四つん這いのままカウンターからそっと顔を出し、リビングに目をやる。二人の先生が、こちらに横顔を向けて座っているのが見えた。
「ええと、御堂先生……でしたよね」
母の声に、すっきりと短い髪の女性が「ええ」と頷く。その顔には見覚えがあった。そういえばさっき母が「カウンセラーの先生」と言っていたことを思い出す。
小学校の時、昼休みはいつもカウンセラールームに入り浸っていた。そこにはテーブルゲームをはじめとする玩具がいくつか置いてあり、色んな学年の子たちが遊びにくる。けれども柚果にとってもっとも楽しかったのは、カウンセラーの先生との他愛ない会話だった。
中学生になり、去年は栞と優愛の存在があったことで忘れていたが、あのカウンセラールームの存在は、柚果にとって本当に救いだった。
「実は大内先生とわたしで、クラスの子たちみんなに話を聞いてみたんですね」
言いながら女性が担任に顔を向け、母に戻した。
「そうしたら、大翔くんに対するいじめのようなものはなかったというのです。大翔くん本人に聞いたわけではないので、あくまで他の児童たちの認識では、ということなのですが」
「そうなんですか?」
母の声が尖った。「わたしはてっきり、大翔がいじめられて学校に行けなくなったものと……」
眉を曇らせる母に、担任が慌てたように、
「ただ、大翔くんが対象ではなかったようなのですが、クラスの中でいじめのようなものが何度かあったそうです。すみません、私の指導不足で……」
そう言って神妙にうなだれた。言葉を継ぐようにカウンセラーの先生が口を開く。
「ひょっとしたら大翔くんにとって、それが心の負担になってしまったのかもしれません」
「そんな! 他の子がいじめられただけで、学校に行けなくなるなんて!」
母が大きな声を出した。その剣幕に、担任が口を噤んだ。沈黙の後、女性が再び口を開いた。
「繊細なお子さんは、自分ではなく親しい友達が攻撃されたことで、心に大きなダメージを追ってしまうことがあります」
「でも、大翔はそんな繊細な子じゃありません。どちらかというと活発で、明るい子なんですよ。上の子に比べて、学校を嫌がる様子もなかったし、ちゃんと友達だっていますし」
母の言葉が、苦い薬のように柚果の口に広がった。これまで母から投げつけられた言葉がフラッシュバックし、胸の中に黒い塊が湧きおこる。
「もしそれが本当なら、わたし、大翔に学校に行くように言い聞かせます。保健室登校もいりません」
母がきびきびと言った。担任が「えっ」と小さく叫ぶ。
「いや、お母さん、それは」
慌てたように止める担任に、
「こんなことなら、最初から厳しく言えばよかったんです。下の子だからって、ついわたしも甘くしてしまって」
悔しそうに言うと、母はそのまま弟の部屋に向かいそうな勢いで、
「ありがとうございました。明日から、無理やりにでも学校へ行かせます」
担任と女性に向かって頭を下げた。隠れていることも忘れ、柚果が声をあげようとした瞬間、
「ちょっと待ってください」
凛とした声が響き、柚果の耳を打った。女性が母に向かい、すっと背を伸ばす。
「大翔くんの心の傷は、大翔くんにしかわかりません。無理に学校に来させるようなことをすれば、もっと傷を深くしてしまうかもしれません」
テーブルに身を乗り出し、訴えかけた。しかし母は首を振る。
「いいんです。この程度のことで傷つくような軟弱なままでは、この先もちょっとしたことですぐに逃げるようになります」
こうなると、母はてこでも動かない。柚果はもう一度天井を見上げた。悔しさを握りしめる。
「お母さん、大翔くんはそんな子じゃありません」
彼女の声に、柚果ははっと目を瞠った。柚果だけでなく、母や担任も驚いたように彼女を見ている。
「大翔くんはとっても優しくて強い子です。でも今は、心が疲れてしまっているんです」
柚果の心に、彼女の言葉がじわりと沁み込んだ。母も同じように、黙ってじっとテーブルに目を落としている。
「お願いします。大翔くんの心の傷を治すお手伝いをさせて下さい」
沈黙の後、母が黙って彼女に頭を下げる。柚果は足音を忍ばせ、そっとその場を後にした。
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