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【小説】日曜日よりの使者 第1話

   第1話

 サンダルの底をアスファルトに擦るようにして歩いていると、正面からゆっくりした速度でふらふら走る自転車がやってきた。

 わずかに道の端によけるが、自転車はハンドルを切ろうとせずそのまま進んでくる。運転している男は片方の手でスマホを持っており、目はその画面に注がれている。

「おい」と声をあげたが、とっさに出たのは喉に痰がからんだ時のような小さな呻きだった。

 運転者はこちらに気づいていない。細い道路は精いっぱい端に寄ってもギリギリだ。
 ふいに運転者が顔を上げた。僕の姿に驚く様子もなく、ハンドルを操作して避けていく。

 通り過ぎていく自転車を振り返ると、またしてもゆっくり、ふらふらと進んでいる。後ろ姿でもスマホを注視しているのがわかった。

 小さく舌打ちし、僕はアパートへの道を辿った。腕にぶらさげたコンビニ袋がガサガサ音を立てている。とたんに、腹が減ってきた。ポケットに手を入れて、取り出した鍵を振り回しながら歩く。

 安アパートの廊下でちゃちな鍵を差し込み、薄い扉を開けると、さっき出ていった時のままの乱雑な部屋が僕を迎えた。ごちゃごちゃとしたものが床を塞いでいるが、それらの隙間を上手に踏み歩き、一人分のスペースの空いた床に座り込む。ほとんど無意識にテレビのスイッチを入れた。

 賑やかになった狭い部屋で、僕はコンビニ袋から中身を取り出した。片方の袋からはポテトチップス、カップラーメン、コーラが二本、大福。もう一つの袋からは温められた弁当。

 弁当を包んでいるセロハンを剥がし、一口放り込んで箸を置いた。もぐもぐしながらポケットからスマホを取り出す。左手でスクロールしながら再び箸に手を伸ばした。テレビは好き勝手にしゃべっている。

 手探りでコーラの栓を開け、傾けた。気管に入って激しくむせ、口から米粒が飛び出す。

 濡れた床をティッシュで拭き取っていると、テレビから音楽が聞こえてきた。サザエさんの主題歌だ。思わず時計に目をやる。

 ああ、もうこんな時間か。

 一瞬だけ食欲が失せる。箸を置き、ため息をついた。

 明日は月曜日か・・・。

 もう一度箸を手にした。スマホを横に置いたまま、ぼんやりとサザエさんを見る。

 カツオはダメなやつのような扱いをされるけれど、本当は登場人物の中で一番大人だと、そう言っていたのは誰だったっけ。

 考えた端から、まるで答えが用意されていたかのように一人の顔が浮かんだ。白くて丸い顔にきりっとした眉。前の彼女モトカノだ。

『汚い言葉も使わないし、ほら、女子への対応も丁寧でしょ。小さな甥っ子の面倒も見るし、なにより家族のムードメーカー』

 話しているうちに自分の言葉に触発されたのか、誰も反対意見を述べていないのに、彼女はますます語気を強める。

 あれは彼女と初めて出会った飲み会の場だった。一体どんな流れからそんな話になったのかは覚えていないけれど、突然に語りだした彼女に、周囲は気まずい目配せを送り合う。

『時にあらぬ疑いをかけられて、事実無根なのにゲンコツを食らうこともあるけど、拗ねたり荒んだりすることなく、ナカジマと野球して遊んでる』

 そこでみんなは笑った。彼女は大真面目だった。そして僕も、たちまち彼女のことが気になって、笑う余裕などなかった。

 必死でアプローチして、デートに誘った。こんなことは初めてだった。何度目かで告白して、つき合うことになった時は自分でも信じられなかった。

 一生彼女を大切にしよう。そう思っていたのに、一年経たないうちにあっさりフラれてしまった。

 コマーシャルの音がひときわ大きく響く。いつの間にか、サザエさんの一本目の話が終わっていた。

 僕は立ち上がり、キッチンに向かった。やかんに水を入れる前になにげなく傾けたら、中に残っていた水と共に色のついた物体が出てきて飛び上がった。カビだ。入っていたのはきっと、先週カップラーメンを作った時に残ったお湯だろう。

 水にもカビが生えるのか。さすがに気味が悪くなり、やかんをしっかりゆすいだ。

 ラーメンにお湯を注いだ頃は、腹の中でさっき食べた弁当が膨れ上がっていたが、苦しさを感じながら最後まで食べ終えた。満腹感が罪悪感に変わる。

 彼女と別れてからなにもする気にならない。ダラダラしながら食べてばかりいるのですっかり腹が出た。

「あーあ……」

 ため息のしっぽが喉を震わせ、声が漏れる。明日から月曜日。また一週間が始まる。それを考えると気が重い。

「日曜日ってあっという間だよな……」

 短く感じるのは、起きるのが遅いせいもある。昼近くにやっと目を覚まし、テレビのリモコンを押す。ベッドの上でゴロゴロしながら、昨日のうちに買っておいたパンをほお張り、ぬるい缶コーヒーで押し流す。

 また腹が減ったら夕方前にコンビニへ行き、帰って食べ終える頃には日曜日のほとんどが終わっている。

 それでも、こうしてダラダラ過ごせることこそが日曜日の真価だ。スマホを見ながら聞き流し続けていたテレビも、今日が日曜日だということを確認する大事なものだ。

 アッコにおまかせ、新婚さんいらっしゃい、笑点──子供のころからやっていた番組を流していると安心する。

 そういえば、日曜日の午後は長寿番組が多い。きっと、このまったりした空気に合っているからだ。

 生き馬の目を抜くテレビ業界も、日曜午後の番組はゆるく肩の力を抜いて制作しているのだろう。それでいい。日曜日に変化はいらない。

 サザエさんのエンディングテーマが流れ始めた。もうすぐ日曜日が終わる。とたんに憂鬱な気持ちになった。

「明日は月曜日か……」

 口に出してみたら、ますます気が重くなった。

「日曜日がずっと続いたらいいのに」

 一週間。いや、思い切って一年くらいダラダラ生活してみたい。

 赤ん坊が羨ましい。もちろん自分にもその時代はあった。その頃、自分がどれほど幸せなのかわかっていなかった。

「月曜日なんて、来なければいいのに」

 そう呟いた時だった。テレビの画面が揺れた。音声がぷつぷつと途切れる。 

 故障かな。リモコンで電源を落とす。しかし暗くなった画面がぱちんという音と共に明るくなり、一人の男性の姿が映った。

『それなら、日曜日の国へいらっしゃいませんか』

 今どき見かけないような太い黒縁の眼鏡をかけ、七三分けの髪型にダブルのスーツを着た男性は、テレビの向こう側から真っ直ぐにこちらを見ている。いや、正確にはカメラを見ているはずだ。けれども男性はまるでカメラを通さずに、液晶の画面だけを通して僕に目を合わせているように見える。

 ──なんだ、この番組……。

 リモコンを取り、チャンネルを変えた。けれども、そこに映るのは同じ男性の姿だ。

『日曜日の国をご存じでしょうか。毎日が日曜日。そんな、あなたにとって夢のような国があるんです』

 ぞわりと鳥肌が立った。電源のボタンを押しても、画面は消えない。

『真夜中前にバスが出ています。駅にいらして下さい。日曜日の国にお連れします』

 コンセントを引き抜いた。ぶつんとテレビの画面が真っ暗になる。気が付けば、肩で息をしていた。

 テレビの音が消えた部屋は、気味が悪いくらい静かだった。冷蔵庫のモーター音が妙に響いてくる。

 僕の見間違えか、勘違いか。今見たばかりのものを疑う気持ちが浮かぶ。恐る恐る、もう一度コンセントを刺した。ぶつんと音がしてテレビの電源が入る。

『なにゆうとんねん! アホか!』

 テレビから騒がしい声に続いて、観客の笑い声が聞こえてくる。通常のバラエティ番組だ。他のどのチャンネルに変えても、いつもとかわらない。

「え……?」

 頭が混乱する。音が煩わしくて、もう一度電源を落とした。

 自分が見たものが信じられない。それでも、妄想や夢だとは思えなかった。

『それなら、日曜日の国へいらっしゃいませんか』

 そのフレーズだけが、妙にくっきりと頭に残っている。


「日曜日の……国……?」

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