【短編小説】望月のころ 第11話(最終回)
第11話
マンションのエントランスで、僕はポケットからハガキを取り出した。部屋番号を確認してからボタンを押す。
「はーい」
その声が、三十年という長い時間を一瞬で溶かした。僕が名乗ると、「どうぞ」という声と共にオートロックが開く。
エレベーターの中で、僕は背面の鏡に映る自分の姿に目をやった。
生え際にぽつぽつと白いものが混じる。特にサイドのあたりは多く、固まりになっていた。
輪郭がたるんでいるのがわかる。目頭から伸びる皺は頬を斜めに縦断しているし、心なしか目尻も垂れている。ほうれい線は口の横まで伸びていた。
眼鏡のブリッジを押し上げ、服の襟を整えた。エレベーターが目的階に到着する。
部屋の前で、僕はひとつ咳払いするとチャイムを押した。わずかな間のあと、扉がそっと開けられる。
「如月くん」
さくらがそう言って微笑んだ。彼女も同じように目尻がほんの少し下がり、ほうれい線も伸びているが、瞳は昔とちっとも変わらない。
「久しぶり」
他に適当な言葉が見当たらず、ようやくそれだけ言った。彼女がドアを大きく開く。
「どうぞ、上がって」
部屋の中は、以前彼らが住んでいたアパートと雰囲気がなんとなく似ているような気がした。彼女に促され、廊下を進んだ先のリビングへ向かう。
扉を開けた途端に、奥の壁に仏壇が見えた。
僕は持参した菓子折りを仏壇に供え、座布団を横にずらしてから正座した。線香をあげ、お鈴を鳴らし手を合わせる。
「今日は来てくれてありがとう」
姿勢を崩さないまま後ろに下がると、背後で見守っていたさくらがそう言って頭を下げた。
「ずっと連絡せずにいてごめんなさい。本当は、亡くなる前に連絡しようとも思ってたんだけど」
僕は頷き、遺影の中の武に目をやった。僕がこれまでに見た中で、一番すっきりしたいい顔をしている。
「お茶、淹れるね」
キッチンに向かうさくらを見送ってから、僕は棚の上に並ぶいくつかの写真を眺めた。病気のせいかスリムになった武を囲み、幼い頃の面影を残す一人の女性と、その子供らしき小さな男の子が二人映っている。
「どうぞ」
さくらの声に、僕はダイニングテーブルに近づいてからもう一度写真を振り返った。
「あれ、映ってるの操ちゃんだよね?」
「そう。結婚して、ここから電車で三駅くらいのところに住んでるの」
さくらが僕の前にお茶とお菓子を差し出す。
「武ね、本当はずっと如月くんに会いたかったみたい」
ややあってから、さくらが言った。
「でも、合わせる顔がないって。亡くなる少し前に、如月くんに連絡しようかって聞いてみたの」
両手を組み合わせた上に顎を乗せ、仏壇へ顔を向ける。
「そしたら武、このまま会わないで逝くって。それで、自分の一周忌が過ぎたら如月くんに連絡してくれって」
窓から明るい光が差し込む。日当たりが良く、住み心地のよさそうなマンションだ。きっとあの後、武は仕事を頑張ったのだろう。
もし亡くなる前に顔を合わせたとしたら、一体なにを話せばよいのか、考えても思いつかない。会うのをためらった武の気持ちがわかる気がした。
「発覚したのはいつなの」
「亡くなる三年くらい前。その段階でステージ4だったんだけど、武が嫌がったから、手術はしないで抗がん剤も使わないで、放射線治療だけにしたのね。でもそれがよかったのか、余命宣告されてるのに、このまま治っちゃうんじゃないかってくらい元気で」
さくらの言う通り、写真の中の武は年齢を重ねているものの、弱り切っている様子ではなかった。
「二番目の孫もちゃんと見れて、最期まで食べられて、たくさんおしゃべりして……」
さくらの顔には疲れによるものか、皺がいくつか蓄積されていたが、かえって上品な印象を与えていた。
「如月くんは、この三十年どうしてたの」
「僕は変わらずだよ。ただ仕事してただけ」
さくらが微笑んだ。
「もちろん知ってるわ」
いくつかの写真立ての横にはブックスタンドがあり、そこには僕の本が並んでいる。それらについて談笑しているうちに、僕の心にはじりじりと焦りの気持ちが生まれてきた。
本当に言いたいことは他にあるのに、なにから切り出したらよいのかわからない。
「わたしね、この本すごく好き」
さくらが僕の著書のうちの一冊を指して言った。それを聞いて、僕は足元に置いてあった自分のカバンを広げた。中から一冊の本を取り出す。
表紙の角はますます丸くなり、カバーは背表紙の部分が破れかけている。それでも、大切に保管してきた古い本だ。
「これ……」
僕は表紙を彼女の方に向けた。緑の草原に佇む一件の家。彼女と出会ってから四十年余り、僕にとっての特別な本だ。
「覚えてるかな」
ようやくそれだけを言った。全身にどっと汗が噴き出す。一瞬の沈黙が、とても長く感じられた。
「うん」
さくらが呟いた。「覚えてるよ」
懐かしそうに目を細め、僕の手から本を受け取る。
「だって、これ、わたしの本だもの」
「え?」
僕は耳を疑った。彼女はぱらぱらと本をめくってから、また閉じて表紙の絵を眺める。
「これね、わたしの本なの」
意味が分からず、黙り込んだままの僕を置いて、彼女が立ち上がる。廊下の向こうへ消えたと思ったら、すぐに現れた。一冊の本を手にしている。
「こっちが如月くんの本」
そう言って差し出したのは、同じように角が丸くなっているものの、大切に扱われてきた古い本だった。二つの本を並べる。
「初めて会った時、同じ本を持っていたでしょう」
さくらの言葉に、僕は口を強く結んだ。そうしないと、あふれてしまいそうだ。
まさか彼女がそれを覚えているとは思わなかった。
「あの時、四人でテーマパークへ行ったよね。絶叫マシンに乗る時、わたしは苦手だから、みんなの荷物を預かって、ベンチで待ってたでしょう」
言われてみると思い出せそうな気もするが、記憶は曖昧だった。テーマパークに行ったこと自体も忘れていたことに気づく。
「その時、こっそり取り替えたの。如月くんの本とわたしの本を」
彼女が面白そうに言って、二冊の本を撫でた。
「どうして……そんなことしたの」
心がざわめく。これまでの長い時間、想像もしなかった一つの可能性が開いていく。
「どうしてかなあ」
彼女が照れくさそうに微笑んだ。
「ただ普通に『同じ本だね』って言えばよかったのかもしれないね。でもね、その時はなんだか言えなかった」
彼女はそこで言葉を切ると、その時の自分を思い出すように宙を見上げる。
「同じ本を読んでいる人がいるって、すごく特別な気がしたの。でも、言葉にするとうまく伝えられない気がして。それに、武もいたし……」
僕は頷いた。あの頃の僕たちは、今よりももっと拙い言葉しか持っていなかった。
「だから、代わりにいたずらしたの。ちゃんと栞も取り替えて……ね」
そう言って、さくらがおどけた顔をした。
「でも、如月くんにバレてたのね」
「いや、知らなかった」
僕はこれまでの長い時間のことを考え、大きく息をついた。
「知っていたらよかった」
さくらが目を丸くする。そして僕を見て微笑んだ。
リビングに明るい光が届く。仏壇に飾られた写真の中の武も笑っている。
「きみに話したいことがあるんだ」
もしきみと僕の物語を描くとしたら、こんなエピローグはどうだろう。
記憶の中と少しも変わらない彼女の笑顔に、一つの予感が僕の胸を叩いていた。
※※※
僕は夢を見る
きみとおなじ名の花の下で
きみに抱かれながら
疲れた身体を横たえ
欠けない月に見守られて
永遠の、幸せな眠りにつく
おわり