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ペニー・レイン  Vol.2

    2

 さえない日、ってのはだれにでもある。その週末の金曜が、ぼくにとってもキムにとってもそうだった。
 ぼくは、朝から珍しくママとちょっとした言い争いをした。その日の朝は、空がさえ渡って、なんだかとても気持ちがよかった。ぼくは、あつあつのマフィンを、ほふほふとほおばりながら、正面に座っているママに言った。
「ぼく、もっと歌がうまくなりたいな。それでね、ママみたいになりたい」
 ママは、マフィンにバターを塗っていた手をとめて、カチャ、とナイフを皿に置いた。
「どういうこと?」
 ママは、うつむいたまま、マフィンをちぎりながら言った。
「どうって……ママは昔、プロだったんでしょ? ぼくもそうなりたいな」
 そこまで言うか言い終わらないうちに、ママは小さい声でつぶやいた。
「むつかしいことよ」
「でも、プロになる人はいるよ」
「狭き門よ」
 ぼくは、ばん、とテーブルを叩いた。
「でも、それはママが決めることじゃない!」
 自分でもびっくりした。そんな風に、大きな声でママに叫んだことはなかった。そう言った後、妙に悲しくなって、ぼくは朝食を食べかけのまま家を出てしまった。
 そんなにムキになるほど固い意志で言ったわけじゃない。なんとなくうきうきして、軽い気持ちで言ったのに。あんなに真正面から否定しなくてもいいじゃないか。それとも、ぼくが何か悪いことを言ったの?
 …そんなわけで、その日はなんだか一日、ぼんやりと朝の会話のことがひっかかってた。帰りには、天気はすっかりどんより曇り空だ。
「……よお」
 いつも通り校門に表れたキムも、どんよりしている。普段なら、「ったく、あの先生、またおれをムチではたきやがってさぁ、」とかいう歯切れのいいセリフが飛び出してくるのに、ずっと無言のままだ。おかしい。いよいよぼくが何か言おうとしたら、キムが急に口を開いた。
「なあ、お前、将来なりたいものとかってある?」
 え、それは……。ぼくは内心どきりとした。せっかく今朝のことが頭から離れていたのに、あまりふれたくない話題だ。
「ええっと……ぼくは……」
 しどろもどろと、重い口を開くと、キムはぼくの言葉を聞かずに言った。
「おれ、今年、十一歳なんだよな」
「それがどうしたの?」
 ぼくは、ぼんやりと前を見て歩くキムの顔をのぞきこんだ。
「イレブン・プラスだよ。学力試験」
 イギリスでは、ジュニア・スクールを卒業する十一歳で、イレブン・プラスという試験がある。その試験で、進学希望のグラマー・スクールに入るか、手に職をつけるテクニカル・スクールに行くか、実用的な勉強をするモダン・スクールに行くかが決まるのだ。
「やっだなー、試験。だいたい、おれなんて頭悪いからさ、テクニカルかモダンかって感じだけどさ」
「だけど?」
「なんか、どっちもめんどくさそうだし」
 キムはポケットに手をつっこみながら、だらだら歩く。
「なりたいものもとくにないし、実用の勉強ったってつまんなそうだし」
 ぼくは黙って聞いていた。
 来年、キムと同じ年になればぼくもそういうことを決めていくのかな。でも、ぼくらの年でやりたいことをしぼれっていうほうが無茶だと思う。今日の朝は、歌のプロになりたいと思ったけど、一週間後は、一年後はどう思っているんだろう。ぼくらの上を、湿気を含んだ重たい風が通り過ぎる。ぼくはひとりごとみたいにつぶやいた。
「みんなどうやって将来なんて決めるんだろう」
「だよな」
 キムが腕を組んだ。
「そうだ、お兄ちゃんに聞いてみれば」
 キムは苦虫をかみつぶしたような顔をしてぼくを見た。
「冗談じゃないよ」
 ぼくは、きょとんとした。
「おれの兄ちゃんが今、どうなってんのか知ってんのか」
 キムの兄ちゃんには昔よく遊んでもらった記憶があるけど、最近あまり見かけない。
「髪とか染めちゃってさ、酒にタバコに大変だよ。近頃、スクーターを手に入れてさ、変なやつらと街をすっとばしてるよ。今、家じゃアイツが一番問題児だね」
 「家じゃ一番問題児」っていうのは、キムの会話でよく出てくる。自分以外の兄弟を引き合いに出してそう言うのだ。
「勉強どころじゃないぜ。何かさー、情けないよ。あれ、カッコイイと思ってやってんのかな」
 キムは、そう言いながら石をぽーんと蹴った。それから、ひょこっとぼくの顔をのぞきこむと、にやりとして言った。
「な、ちょっと寄り道してこうぜ」
 ぼくらは、遠回りしてウエスト橋まで来た。ぼくとキムは、あまり気分がすっきりしないときや、早く家に帰りたくないとき、この橋に来て、川を眺める。天気の穏やかな日には、厚いれんがの手すりに座って、足をぶらぶらさせたりした。足の間から、流れる川をじっと見ていると、吸い込まれそうでちょっと怖い。そのスリルがまたいい。

 橋までくると、突風が吹きぬけた。
「すごい風……!」
 葉っぱやゴミが、灰色の空に点々と舞う。なんか、嵐が来るみたい。嵐の前の風は好きだ。なぜだか体の奥がぞくぞくわくわくして、ドラマチックな予感がする。
 それは本当にドラマチックな予感だったのかもしれない。
 ふと、風にのって、ぼくの耳にラッパのような音が聞こえてきた。
「キム、あの音」
ぼくらは、橋の手すりから土手を眺めた。
 ひとりの男の子が、サックスを吹いていた。ぼくらより大分年上に見える長身の男の子は、風に吹かれて気持ちよさそうにサックスを吹いている。生のサックスの演奏を見たのは初めてだ。
「すごい……」
 弾む音に、ひねりの入ったメロディ。なんて、カッコいいんだ……! ぼくとキムは、言葉を失って彼の演奏に聞きほれてしまった。男の子は、紺色のブレザーに緑のネクタイという、いかにもパブリック・スクール(私立中学校)の制服らしい服装をしていた。風にくせ毛の金髪がそよいでいる。その姿が、またサックスと妙に合っていた。映画のワンシーンのように絵になる。
 ぼくは、もう心を奪われて、ふらふらと土手に降りていった。近くで聞くと、サックスの音は、ぼくの心臓にまでビンビン響いた。めくるめくメロディは、いつまで聞いても飽きない。
 男の子はサックスを吹きながら、ぼくとキムがそばに来たのをちらり、と見て、なおも吹き続けた。いつ終わるともしれない、風に乗って弾むジャズのメロディに、ぼくらはしばらく立ち尽くしていた。

Vol.1にもどる)              (つづく…♪ Vol.3へ)

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清水愛
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