【連載小説】「青く、きらめく」Vol.11第二章 海の章
マリは、少し緊張気味にスペースに向かう。一歩一歩、秘かな祈りをこめながら。どうか、カケルの最後の舞台、一緒に共演できますように、と。
正面を向いて、遠くを見つめる。少し、息を吸い込む。
「花を」
ここで声の調子を変えよう。
「花はいりませんか」
まばたきはしない。遠くの、さらに向こうにあるものを見るように、目を開く。
「うん」
「いいね」
ぽそぽそっと何人かのささやき声が耳をくすぐる。
「はい、カット」
カケルの合図で、ふっと肩の力が抜けた。
やった、と心の中で小さくガッツポーズをした。感触をつかんだ、と思った。何となく決まり、のムードが部員たちの間にも流れている。マリは大きくほっと息を吐いた。そのとき、
「まだ一人いるぞ」
カケルの声が響いた。その声に、その場の全員がはっとしたようだった。
「次、美晴」
美晴は、多少とまどいながら、ソファから立ち上がった。マリとすれ違うとき、なぜか目を伏せた。
一同が注目しても、美晴はなかなか言葉を発しなかった。緊張している? いや、違う。美晴のまなざしが、だんだん透き通ってほのかに輝きだすのを、マリは見た。
「花を」
第一声が響いた。
「花はいりませんか」
天井につきぬけるような、透明感のある声だった。声を発した後も、美晴の周りには冷たい空気が漂っているように思えた。
誰も、何も言わなかったけれど、皆が内心ざわついているのが分かった。自分がそう感じただけかもしれないけれど――。
「これで全員」
真っすぐ前を見たまま、カケルが言った。彼の表情が気になった。けれど、そこからは何の感情も読み取れなかった。
「マリちゃんが適役だと思う」
真っ先に由莉奈が推した。
「ぼくもそう思います」
一年生の優がよどみなく言い切る。
カケルは、腕を組んで目をつむって天井を仰いだ。白い時が流れる。みんな、カケルのひと言を待っている。
「マリでいこうか」
一同から、安どの息がもれた。
たぶん、カケルはほんの少し、迷っただろう。少女を、マリでいくか、全く新しい可能性の美晴にするか。カケルは、舞台に関しては公平な人だ。作品のことを第一に考えて、えこひいきなどしない。今までがそうだった。けれど、それを踏まえて自分を選んでくれたこともまた、マリはうれしかった。
その日の夜、次の舞台に向けてという名目で飲み会があった。
「じゃ、次の舞台に向けて」
カケルが一呼吸おく。
「カンパーイ」
何もなければ、楽しく終わるはずだった。今日の店は、おいしい焼き鳥を出す店で、役も決まった後の仲間たちは、普段よりテンションが高めだった。カケルの相手役をやれることになった気分も、いつもよりマリの心を弾ませた。
「良かったじゃん」
由莉奈がひじで軽くマリをつついてきた。いい感じにお酒が回ってきている。
「楽しみですねー。ぼく、初めて舞台に立つの、どきどきしちゃうな」
優が焼き鳥の肉を串からぐい、とひきちぎりながら言う。優は通行人の役でちょろっと出るだけなのだが。どうも、気づくと優はそばに寄ってくる。焼き鳥をくちゃくちゃかみながら、優はなおも続ける。苦手だな、と思いながらも、あからさまに席を外すこともできない。マリは、目をそらしながら、あいまいに返事をする。
「今度、演技指導受けたいな。マリさんから」
そう言うと、優の腕がすっとマリの腰をからめとった。
「やめて」
とっさに、マリは優の腕をふりほどき、体を大きくひるがえした。隣の佳乃にぶつかる。きゃっ、と小さく声がして、佳乃のグラスから梅酒がこぼれた。
「ごめん」
マリは、佳乃にあやまると、慌ててティッシュを探す。胸が異様にどきどきする。
優は、しばしぼう然とマリを見ていたが、すぐに気持ちを切り替えたのか、その場を外した。
ほろ酔い気分は、すっかり醒めてしまった。それから、何かつかえたような気持ちのまま、飲み会は過ぎて行った。
暗澹たる気持ちを引きずったまま、家の門をくぐる。
カケルは見ていただろうか。私が、体をひるがえすのを。優が、ある意識をはっきり持った腕を、私の腰に回してきたのを。
男が行きつきたいところは分かっている。でも、どうしてそうする前に、男たちは私の目を見て話をしてくれないんだろう。どうしてもっと分かり合える言葉や夢を語ってくれないんだろう。どうして、君の好きなものは何、と聞いてくれないんだろう。どうして。どうして、そうするより先に、その蛇のような生ぬるい手を伸ばしてくるのだろう。
マリのほほを、知らないうちに一筋の涙が伝った。外を行き交う車の音もしない深夜。今夜は、満月。月明かりが強いので、部屋の電気はつけたくない。
こういう時は、耳を澄ます。海の音が聞こえるように、耳を澄ます。
あの夏も、そうだった。