【創作大賞2023 恋愛小説部門 応募作品 】『緑にゆれる』 序章
(あらすじ)
「あんたの足りない部分を、だれかにそっと委ねて満たしてもらいなさい。それが、幸せというものよ」
カケル、三十六歳、離婚歴あり。
美晴、三十三歳、シングルマザー。
十五年を経て再会した二人は、ふとしたきっかけで一緒に暮らし始める。
美晴の営むカフェで、ひとり息子の圭も一緒に。
それぞれの揺れる思いは、ゆっくりと動き出す。
緑あふれる鎌倉を舞台にくり広げられる、切なくて愛おしい愛の物語。
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序章
この味は、知っている。
ひと口食べたとき、そう思った。でも、どこで、いつどのようにしてそれを食べたのか、思い出すのに少し、時間がかかった。
口の中で、とろとろ溶けるジャガイモとミートソースの重なり。
そうだ、これは。
カケルは遠くに見える海に目をやった。
美晴が作ってくれた、シェファーズ・パイ。そのひとの名前も、料理の名前も、ずい分長いこと忘れていた。
ざざ―――っと風が吹いて、桜の花びらが舞い落ちてきた。
ほとんど食べ終わっているプラスチックの弁当箱の中に、花びらがひとひら、ふたひら舞い落ちる。
「あー、今の絵、すごいよかったのに。カメラ回してたらよかった」
カメラマンの谷崎が舌を鳴らす。
「もう一度、風、吹かないかな」
谷崎は、そそくさと弁当をかっこんで、機材のカメラに手を添えた。カケルも、何だか落ち着かない気分になって、残りの弁当を平らげる。平らげながら、半ば確信する。やっぱり、この味は、そうだ。
弁当の裏を確認してみたが、製造元などが記してあるシールが貼ってない。どこか個人的な店のものなのだろう。
「そろそろ休憩終わりでーす! お弁当箱回収しまーす」
去年新人で入ってきたADの奈美が声をあげる。手早く弁当箱を集めていく奈美に、カケルは声をかけた。
「奈美ちゃん、この弁当、どこで買ってきた?」
「えーっと、どこなんだろ。バイトの平林くんに頼んじゃったから、私も知らないんです」
学生である平林は、午前中の雑務と弁当手配を終えて、今日はもう上がってしまった。
「店の名前とかどっかに書いてないかな」
「確かにおいしかったですもんね。手作りって感じで。私も知りたいな。さっき、お弁当入ってたビニール袋があったような」
回収したゴミ袋を、奈美がガサゴソゆすってのぞきこむ。
「あ、あった」
奈美が小さく叫んだ瞬間に、ディレクター補佐の田原の太い腕が、空になった弁当箱とともにゴミ袋にずぼっと突っ込まれた。
「あ……」
「ごちそうさーん」
田原が野太い声で言う。
「あー」
奈美が手をのばそうとした白いビニール袋に、小さなシールが貼ってあるのがかろうじて見えた。グラデーションのはんこで彩られた店名は、田原の弁当箱からこぼれたソースで、判読が難しい。頭文字が「Q」のような。あとは小文字のような。
「……どうします?」
このゴミ袋の中から拾い出すのもためらわれて、カケルは首を振った。
「あ、いや、いいよ。ちょっと気になっただけだから」
撮影現場は慌ただしく、カケルはすぐ持ち場に戻らなければならなかった。
この分だと、この天気も長くもたないだろう。ちょうど風も吹いてきた。桜のこの瞬間を切り取るのは、今しかない。
「じゃ、入りまーす」
奈美の言葉にみなが反応し、持ち場についてゆく。
海の天気は、すぐ変わるから。
そう言ったのは、誰だったか。このおれか。誰に言ったんだっけ。仕事に戻りながら、記憶の糸がほぐれてするすると伸びていく。美晴に言ったのだったか。
日が照って、くっきりと鮮やかに桜の花が目に映る。盛り上がるような枝々は、今花ざかりだ。
ぼわぼわと揺れる桜の枝が、カケルの心をざわめかせる。
どこかでうぐいすが鳴き交わしている。
ざわめきは、止まない。