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「実家の夏、棲む者の夏」

灼熱の太陽が容赦なく照りつける8月中旬のある日、私は実家に帰省していた。都会の喧騒から離れ、静かな田舎町で過ごす夏休み。それは至福の時間のはずだった。

実家は山間の小さな集落にあり、周囲を鬱蒼とした森に囲まれていた。幼い頃から慣れ親しんだ風景だが、今回はどこか違和感を覚えた。森が、いつもより暗く、そして深く見えたのだ。

到着した夜、久しぶりに両親と夕食を共にした。懐かしい味に舌鼓を打ちながら、他愛もない会話を楽しんだ。しかし、話題が尽きかけたとき、母が不意に言った。

「そういえば、最近、山で変な音がするんだよ」

私は箸を止めた。「変な音?」

父が溜め息をつきながら説明した。「ああ、夜中に聞こえるんだ。獣の鳴き声みたいで、でも獣じゃない。人の声にも似てるが、人間のものじゃない」

「冗談でしょ?」私は笑おうとしたが、両親の真剣な表情に笑顔が凍りついた。

「隣の佐藤さんち、先月引っ越したの知ってる?」母が続けた。「あの音のせいよ。怖くて住んでられないって」

私は首を振った。「まさか。気のせいじゃないの?」

父は黙ってうなずいたが、その目には不安の色が浮かんでいた。

その夜、私は子供の頃に使っていた2階の部屋で眠りについた。が、真夜中に目を覚ました。窓の外から、かすかな音が聞こえてきたのだ。

最初は風の音かと思った。しかし、よく聞くと、それは風ではなかった。低く、うねるような唸り声。獣のようでもあり、人間のようでもある。そして、どこか悲しげで、痛ましい響きがあった。

私は身を固くし、息を潜めた。音は次第に大きくなり、やがて家全体を包み込むほどになった。そして突然、静寂が訪れた。

翌朝、私は両親に尋ねた。「昨夜の音、聞こえた?」

両親は顔を見合わせ、ゆっくりとうなずいた。「あれが噂の音よ」と母が言った。

その日、私は散歩がてら、森の中を歩いてみることにした。鬱蒼とした木々の間を縫うように進むと、空気が徐々に重くなっていくのを感じた。そして、ある一角に差し掛かったとき、凍りつくような光景を目にした。

巨大な楠の木の幹に、無数の人形が釘で打ち付けられていたのだ。色あせた着物を着た人形たち。その表情は、苦悶に歪んでいるように見えた。

恐怖で足がすくんだ。しかし、その時、背後でカサカサという音がした。振り返ると、老婆が立っていた。やせ細った体に、皺だらけの顔。そして、その目は、どこか虚ろだった。

「あんた、都会から来たんでしょ」老婆が、かすれた声で言った。

私は頷くことしかできなかった。

「ここはね、昔から『影の谷』って呼ばれてたんだよ」老婆は続けた。「この森に棲む者たちがね、時々、人の子を連れ去っていくんだ。連れ去られた子の魂を鎮めるために、村人たちは人形を作って、この木に打ち付けたんだよ」

私は震える声で尋ねた。「そんな、本当なんですか?」

老婆は答えなかった。代わりに、こう言った。「気をつけな。お盆が近いんだ。影たちが、もっと活発になる時期さ」

その言葉を最後に、老婆は森の中へと消えていった。

私は急いで家に戻った。両親に老婆の話を聞かせると、二人とも顔を曇らせた。

「あの話か…」父が重々しく言った。「昔からある言い伝えだ。でも、ただの迷信だと思っていた」

その夜、再び例の音が聞こえてきた。今度は、より近く、より大きく感じられた。私は布団の中で身を縮め、耳を塞いだ。しかし、音は容赦なく響き渡った。

そして、突然、2階の廊下で足音がした。カタ、カタ、カタ。ゆっくりと、しかし確実に、私の部屋に向かって近づいてくる。

恐怖で体が硬直した。足音は部屋の前で止まった。そして、ドアがゆっくりと開く音がした。

私は、震える手で布団をめくり、恐る恐る顔を上げた。そこには…

何もなかった。

ドアは閉まったままで、部屋には誰もいなかった。幻聴だったのか。それとも、夢を見ていたのか。

安堵のため息をつきかけたその時、窓ガラスに映った影に気がついた。それは、人の形をしていたが、どこか歪んでいた。そして、ゆっくりと私の方を向いた。

叫び声を上げる間もなく、影が一気に襲いかかってきた。

目が覚めると、私は病院のベッドの上にいた。両親が心配そうに傍らに座っていた。

「気絶してたのよ」母が説明した。「朝、様子を見に行ったら、床に倒れていて…」

医師の診断では、熱中症による幻覚だという。しかし、私の背中には、何かに掴まれた跡のような、5本の黒い痣があった。

退院後、私は即座に東京に戻ることにした。両親も反対しなかった。

実家を後にする日、最後に振り返ると、2階の窓に人影が見えた。しかし、両親はすでに1階で見送りの準備をしていた。

バスに乗り込み、シートに身を沈めた私は、ふと隣を見た。そこには、あの老婆が座っていた。

「お盆はまだ終わっちゃいない」老婆はニヤリと笑った。「影たちは、獲物を簡単には逃がさないよ」

バスが動き出す。私の悲鳴は、エンジン音にかき消された。

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