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『氷の花園』

割引あり

雪が静かに降り積もる2月の夜、東京郊外の高級住宅街に悲鳴が響き渡った。

「誰か!誰か助けて!」

その声に反応して、隣家から飛び出してきたのは、刑事の佐藤慎也だった。彼が駆けつけた先で目にしたのは、凍りついたような光景だった。

裏庭に作られた小さな日本庭園。その中心にある池の氷の上に、一人の女性が横たわっていた。白いドレスに身を包んだその姿は、まるで眠っているかのようだった。だが、その胸元に咲いた真紅の花が、それが決して安らかな眠りではないことを物語っていた。

「まさか...」

佐藤は息を呑んだ。被害者は、この家の主婦である高橋美咲、35歳。彼が三日前に取り調べた人物だった。

「なぜだ...」

佐藤の脳裏に、あの日の取り調べの様子が蘇る。

三日前、高橋家の隣に住む老夫婦が失踪した。その日、高橋美咲が最後に老夫婦の姿を目撃していたため、事情聴取に訪れたのだ。

「ええ、確かに昨日の午後3時頃、お二人が出かけるのを見かけました。でも、特に変わった様子はありませんでしたよ」

そう語る美咲の表情に、佐藤は違和感を覚えた。どこか上滑りな笑顔。そして、その瞳の奥に潜む何か...恐怖?それとも罪悪感?

だが、それ以上の証拠はなく、取り調べは終了した。そして今、彼女は氷の上で冷たくなっている。

佐藤は現場を確認し始めた。雪の上には足跡がない。犯人は雪が降る前にここを去ったのか。それとも...

彼の目が、池の端に置かれた一輪の白い花に止まった。椿だ。しかし、よく見ると、その花びらは不自然に固い。

佐藤が手を伸ばすと、その瞬間、「花」がパラリと崩れ落ちた。

「氷...?」

そう、それは氷で作られた椿の花だった。完璧な造形。まるで本物の花が凍ったかのような美しさ。

佐藤の頭に、ある可能性が浮かんだ。この氷の花。そして、雪に残されていない足跡。これは...

その時、彼の背後で物音がした。振り返ると、家の中から一人の男が姿を現した。

「私が...私がやったんです」

男は震える声でそう告白した。高橋家の主人、高橋隆司(42)だ。

「美咲が...美咲が全てを台無しにしたんです」

隆司の告白は、佐藤の予想をはるかに超える真実を明かし始めた。

しかし、佐藤の直感が告げていた。これは終わりではない。むしろ、真の謎はここから始まるのだと——。



佐藤は隆司を見つめた。「全てを話してください」

隆司は震える手で額の汗を拭った。「私は...氷の彫刻家なんです。ただの会社員ではありません」

その言葉に、佐藤の目が僅かに見開いた。確かに、あの完璧な氷の椿は素人の技ではない。

「半年前、隣の老夫婦から依頼を受けたんです。彼らの60周年記念に、特別な氷の彫刻を作って欲しいと」

隆司は言葉を継いだ。「その彫刻には、老夫婦の若かりし頃の姿を刻むことになっていました。そして、その中に...」

彼は言葉を詰まらせた。

「何を?」佐藤が促す。

「...彼らの遺灰を封じ込めるんです」

佐藤は息を呑んだ。なんという奇妙な依頼だろう。

「老夫婦は、自分たちの命が長くないことを悟っていたんです。最後に、永遠の若さで一緒にいたいと」

隆司の表情が歪んだ。「私は躊躇しました。でも、彼らの真摯な願いに、最終的には引き受けることにしたんです」

「そして、三日前...」

佐藤は息を呑んで聞き入った。

「彼らは自ら命を絶ったんです。私の工房で」

「何だって?」佐藤は思わず声を上げた。

「私は約束通り、彼らの遺灰を氷の彫刻に封じ込めました。そして、その夜...」

隆司の声が震えた。「美咲が全てを知ってしまったんです」

佐藤は状況を整理しようとしたが、まだ多くの疑問が残っていた。「なぜ美咲さんを...」

その時、家の中から悲鳴が聞こえた。

二人が駆け込むと、そこには警察に通報していたはずの隆司の娘、麻衣(17)が立っていた。彼女の足元には、割れた氷の彫刻の欠片が散らばっている。

「お父さん、なんで嘘をつくの?」麻衣の声には怒りが滲んでいた。

隆司の顔から血の気が引いた。「麻衣、何を...」

「私が全て見たのよ。あの日、お母さんが氷の彫刻を割ろうとしているところを」

佐藤は息を呑んだ。状況が一変した。

麻衣は続けた。「お母さんは、おじいちゃんとおばあちゃんを助けようとしたの。彼らはまだ生きていた。氷の中で冬眠状態だったの」

「冬眠...?」佐藤は困惑した。

「そう。お父さんの新しい技術よ。人体を氷の中で保存する方法。でも、お母さんはそれが間違っていると思った。だから、彼らを解放しようとしたの」

隆司は崩れ落ちるように膝をつ

いた。「そんな...美咲が彫刻を割ろうとしているところを見て、私は...」

「カッとなって彼女を殺してしまったのね」佐藤が言葉を継いだ。

隆司は顔を覆って泣き崩れた。

しかし、佐藤の頭の中では、まだピースが合わない。もし美咲が老夫婦を助けようとしていたのなら、なぜ彼女は三日前の取り調べで真実を話さなかったのか。

そして、もう一つの疑問が浮かんだ。

「麻衣さん」佐藤は少女に向き直った。「あなたはどうやってこの全てを知ったんです?」

麻衣の表情が一瞬凍りついた。

その時、庭から物音が聞こえた。

三人が駆けつけると、そこには信じられない光景が広がっていた。

池の氷の上に横たわっていたはずの美咲の遺体が消えていたのだ。

代わりに、そこには一輪の赤い椿が。それは氷ではなく、本物の花だった。

佐藤の頭に、ある可能性が閃いた。この事件は、まだ何も解決していない。むしろ、本当の謎はここから始まるのかもしれない。

彼は麻衣と隆司を見つめた。この父娘の間に、どんな秘密が隠されているのか。そして、消えた美咲の遺体。氷と生命を操る不可思議な技術。

全ては、まだ氷の向こうに隠されているようだった。

佐藤は深く息を吐いた。この氷の花園に隠された真実を解き明かすには、彼の全ての推理力が必要になりそうだ。

そして、この謎を追う中で、彼は人間の欲望と愛、そして生命の神秘に迫ることになるだろう。

雪は依然として静かに降り続け、白い闇が真実を覆い隠そうとしていた。

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