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コーヒーと、彼女と、僕のありふれた決意
第一章 停滞の三回生
東京のとある大学に通う田中あきらは、21歳の春を迎えていた。普通なら「大学最後の一年が近づいてきたし、就職活動も始まるし、そろそろ本腰入れないと…」などと考える時期である。ところが、あきらにはそうした“危機感”というものが著しく欠如していた。
大学三回生という身分は、実のところ講義数もそこまで多くはなく、しかもオンライン授業やレポートで単位を取れる科目も増えてきた。結果として、「家にいてもなんとかなる」という逃げ道を見つけてしまったのだ。
彼の小汚いワンルームには、洗濯物が山積みになっており、床には食べかけのスナック菓子の袋が転がっている。起き抜けにスマホを開き、まずはYouTubeを一通りチェック。そのまま昼になればコンビニに行って弁当を買い、食べながらSNSアプリ「X(旧Twitter)」をぼんやり眺める。何もやる気がわかず、午後は再びゴロゴロとベッドに転がり、時折動画サイトを徘徊。夜が更ければ、最近ハマっているAV女優・斎藤みさとの作品を見ては、淡々と欲望を処理する——そんな毎日が続いていた。
「はぁ…楽だけど、なんか空しいよな…」
ただ、その空しさを打破するような行動力を、あきらは持ち合わせていない。そうして、何事にもやる気が出ないまま、同じような日々をループしていたのだった。
第二章 思わぬ遭遇
ある日の昼下がり。いつものようにコンビニ弁当を買いに出かけたあきらは、帰り道の大通りでふと足を止めた。視界の片隅に、見覚えのある女性の姿を見つけたからだ。
「え……あれ、まさか……?」
気のせいだろうか。だが、彼女の整った顔立ちと、抜群のスタイル。その雰囲気は、まさに画面越しに見ていた斎藤みさとそのものだった。よくテレビや広告などで、芸能人を見て「似ているけど別人かな」と思うことはある。しかし、今回はほぼ間違いなかった。
あきらは驚きすぎて心臓が高鳴る。これほど身近なところに、あの憧れの存在がいるなんて。軽い興奮に包まれつつ、どうするか迷っていると、彼女はこじんまりとした喫茶店へスッと入っていった。
「……行くしか、ないよな。」
本来ならストーカーまがいの行為かもしれないと頭をよぎったが、その好奇心と憧れは止まらない。結局あきらは意を決して、彼女の後を追いかける形で喫茶店のドアをくぐった。
第三章 喫茶店での偶然
店内は昔ながらの落ち着いた雰囲気で、常連らしきお客さんが数名散らばっている。あきらはできるだけ目立たないように席を探し、彼女の様子をうかがった。
「いらっしゃいませ。ご注文は?」
店員に促され、適当にブレンドコーヒーを頼む。すると、カウンターのほうから聞こえてきた声に、あきらは耳を澄ませた。
「みさとちゃん、いつものね」 「はい、ありがとうございます」
やはり間違いなかった。声の質感も、動画で聴いていたものと同じ。しかも“みさとちゃん”と呼ばれているということは、どうやら常連らしい。こんな近くの喫茶店に通っているとは驚きだ。
(まさか、本物を目の当たりにできるとはなぁ……)
彼女はコーヒーを受け取ると、慣れた様子で席に腰を下ろした。あきらは隣のテーブルからチラチラと様子を見ているが、話しかける勇気はまだ出ない。そもそもAV女優に対して、どんなふうに声をかければいいのか。いや、それ以前に自分はこんな生活を送っているただの大学生だ。格差が激しすぎる。
しかし、その日の帰り道、あきらの頭の中には一つの強い想いが芽生えつつあった。
「俺……このままじゃダメだよな。なんとかして、みさとさんと会話できるように、自分を変えないと……」
憧れの相手が現実にいる。その事実は、あきらの無気力な心に一筋の光を差し込んでいた。
第四章 努力の始まり
翌日から、あきらの生活には小さな変化が起こり始めた。まずは外に出るという習慣を作ろうと、毎日最低一回は散歩をする。おかげで、その喫茶店の周辺を散策しつつ「もしかしたら、今日も会えるかも……」という期待を抱いていた。
さらに、髪を切った。長い間放置していた伸びっぱなしの前髪もスッキリ整え、今まで考えもしなかった「ファッション」なるものにも少し手を伸ばした。安い古着屋で店員に勧められるがままシャツとパンツを買っただけだが、部屋着のまま外を歩いていた時よりは幾分マシだろう。
そしてもう一つ、コーヒーの勉強も始めた。喫茶店のメニューにはブレンドやアメリカン、カフェラテなどいろいろあるが、それぞれの違いがさっぱりわからなかったあきらは、ネットで基礎的な情報を仕入れ、「初心者が失敗しにくいコーヒーの淹れ方」などを調べ始めたのだ。それはいつか、みさとと自然に会話をするきっかけになるかもしれない。
こうして、“彼女と話したい一心”で、あきらは少しずつ動き出した。大学へ行けば単位をしっかり取り、家でもそこそこ勉強するように……なるはずだったが、まだ怠惰な本質は拭いきれない。とはいえ、何も変わらないままでは終わらない、そんな予感だけはあった。
第五章 奇跡の会話
そうして数週間が過ぎたある日、あきらはついに行動を起こす。喫茶店で彼女の姿を見かけた瞬間、意を決して近づこうと決めたのだ。
「あの……すみません。いつもここ、来られてるんですか?」
なんともぎこちない言葉に、みさとは一瞬きょとんとした顔をした。だが、すぐににこりと微笑んで答える。
「はい、コーヒーが好きで、用事がある日はだいたい寄っちゃうんです。」
その笑顔に、あきらの心臓はドクンと鳴る。
「そ、そうなんですね……。ここのブレンドって、飲みやすいですよね。」
「うん、あまり苦くなくて私も好き。あ、あなたはここの常連さんですか?」
「い、いや、僕は最近ちょっとハマり始めたくらいで……」
さすがにここで「実はあなたのAVを拝見しています」などとは言えない。頭の中は真っ白だが、なんとか笑顔を取り繕い、当たり障りのない会話を続ける。結果としてはほんの数分の雑談だったものの、あきらにとっては大きな一歩だった。
第六章 恋心と覚悟
そこから少しずつ、二人は喫茶店で顔を合わせれば言葉を交わすようになった。彼女がプライベートをどこまでオープンにするかはわからないが、少なくとも「斎藤みさと」という芸名は、周りにカミングアウトしているらしい。それでも、あくまで普通の女性として周囲に受け入れられており、お店の人からも「みさとちゃん」と親しまれているようだった。
そんなふうに、あきらはますます彼女に惹かれていく。画面越しに憧れていた存在が、現実の人間としてそこにいる。その事実だけで心が躍った。やる気のなかったはずのあきらが、最近は朝も早く起きてきちんとシャワーを浴び、髪をセットし、喫茶店に足を運ぶようになった。
しかしある日、ショッキングな事実が発覚する。どうやら彼女にはイケメンでお金持ちの彼氏がいるらしいのだ。ふとした会話の中で、みさとの口から「あ、そういえば彼氏がここの豆を気に入ってね」という軽い一言が飛び出した。
あきらの胸は、ズシンと重たく沈んだ。彼氏がいる。それもイケメンで金持ち……。自分なんかが勝てるわけがないと思うと、心が折れそうになる。
「そ、そうなんだ……。すごいね……」
一応笑顔を作って返したものの、その日は何をしても手につかなかった。
第七章 葛藤と決意
部屋に戻ると、あきらはいつものようにベッドの上でスマホを眺める。SNSを開けば、リア充たちの華やかな写真が並び、みさとが出演している動画の広告まで流れてくる。彼女が遠い世界の存在に思えて仕方がない。
「やっぱり……高嶺の花ってことなのかな。俺なんかがいくら頑張っても、あの彼氏には勝てないよな……」
これまでの努力は、ただの自己満足だったのかもしれない。服装を整え、会話の勉強をして……それでどうにかなるレベルの話じゃない。分不相応だと頭ではわかっている。けれど、どうしても諦めきれない気持ちがあるのも事実だ。
「せめて……一度だけでも、彼女ともっと深い関係になれたら……」
断られても、なお湧き上がる願望。今まで自分の欲望を満たすだけだったが、そこに彼女への純粋な好意も加わり、あきらの胸は混乱していた。何かを決意しようとする自分もいるし、「そんなの無理だろう」と冷めた自分もいる。
さまざまな思いが入り混じる夜、あきらはこぶしを握りしめて心の中でつぶやいた。
「……もう一度、アタックしよう。絶対に無理だってわかってても、何もしないまま後悔するよりはマシだ。」
第八章 もう一度のアタック
翌日、あきらは喫茶店でみさとを見かけるや否や、深呼吸をして席へ向かった。周囲には他のお客さんもいたが、そんなことを気にしていられない。
「あ、あのさ……ちょっと話があるんだけど、いいかな?」
みさとは怪訝な顔をしたが、真剣な表情を読み取ったのか、軽くうなずく。店の端のほうへ移動し、あきらは意を決して告白とも呼べる言葉を口にした。
「俺、みさとさんが好きなんだ。ずっと憧れてたし、実際こうして話せるようになってからは、もっと惹かれてる。ただ、彼氏がいるっていうのはわかってるし、俺じゃあ勝ち目がないかもしれない。でも……どうしても、あきらめきれないんだ。」
一気に言い切って、あきらはみさとの目を見つめる。みさとは困ったように口を開いた。
「そう……だったんだ。私、彼氏のことは大事に思ってる。でも、田中くんだって色々と頑張ってくれてるのは伝わってきたし、気持ちはありがたいよ。」
「それでも……無理、だよね?」
「うん。ごめんね。」
優しい口調ながら、それは明確な拒絶だった。あきらは分かっていたつもりでも、やはり心が軋むように痛む。だが、みさとはあきらの手の甲にそっと触れて言った。
「でも、ここまで言ってくれたのは嬉しかったよ。これからも普通に、友達としてなら話せるから。」
それは少し残酷にも思える優しさだった。あきらは笑顔を作ろうとしたが、顔が引きつる。
「ありがとう……。ごめん、ちょっと外の空気吸ってくる。」
喫茶店を出たあきらは、そのまま少し遠回りして家に帰った。
第九章 成長を実感する瞬間
部屋の中で一人になったあきらは、しばらく動けなかった。やはり玉砕か。どこかで予想していた結末だけれど、真正面から気持ちをぶつけたことで、自分なりには大きな区切りがついたようにも感じる。
「まあ、そりゃそうだよな……彼女には彼女の人生があるし。」
失恋の痛みをかみしめながら、それでも少しだけ心が軽くなった気がした。以前の自分なら、こんな失敗でモチベーションがゼロになり、再びダラダラと何もせず落ち込むだけの日々に戻っていたかもしれない。しかし、今のあきらは違う。自分から動いて、話して、想いを伝え、そして玉砕した。それは明確に「行動」した結果であり、以前の自分とはまるで違う。
「結局、彼女と付き合うことはできなかったし、諦めるしかないんだろう。……けど、なんか、もっと頑張りたいって思えるんだよな。」
みさとに振られてしまった痛みよりも、不思議と「これからどうしていこうか」というわくわく感が生まれていた。そうやって成長を感じる自分に、あきらは少し戸惑いながらも微笑むのだった。
第十章 未来へ続く道
それから数日後、あきらは喫茶店に立ち寄ったが、みさとの姿はなかった。彼女に会えないのは少し物足りないような気もするが、自分は自分の生活を続けなければならない。
「よし、明日は大学に行って、卒論のテーマを先生に相談してみようかな。」
そんなふうに自然と前向きな考え方ができるようになっている自分に驚く。あの日、喫茶店でみさとに出会う前は想像すらできなかった姿だった。
もちろん、完全に吹っ切れたわけではない。いつかまた偶然にみさとと会えたら、そのときはどんな顔をすればいいんだろう、と考えてしまう瞬間もある。けれど、それさえも成長の糧にしようとする自分がいる。
「一度断られたくらいで、人生全部が終わるわけじゃないもんな。」
失恋の痛みを抱えながらも、あきらは新しい日常へ一歩を踏み出す。部屋の掃除をし、バイトのシフトを増やしてみる。小さな変化を積み重ねながら、かつての“ダラダラとしただけの大学生活”を脱却しつつあった。
いつか遠い未来、この出来事を振り返ったとき、あきらはきっとこう思うだろう。「斎藤みさとに出会わなければ、俺はずっと部屋の中でくすぶっていたかもしれない」と。
コーヒーと、彼女と、そして自分の小さな決意が重なって、生まれた物語。その結末は、まだ先の未来に続いているのかもしれない。今はただ、苦くてほろ苦い一杯のコーヒーを飲み干しながら、あきらはそっと微笑むのだった。