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働いている人は偉い/結婚式/夫のすごさ/分人について
10/17(木)
取材でオフィス街に行くといつも、働いている人たちは偉い、と思う。スーツやオフィスカジュアルで首からパスカードを下げた、いかにも「働く人」を見るとソワソワしてしまう。わたしも自分の力で生活しているという意味では確かに「働く人」なのだけれど、大きなビルに吸い込まれていく人、ランチのために財布だけ持って街を歩いている人、疲れた顔をして退勤ラッシュの列に並んでいる人などを見ていると、独立をせずに会社員を続けていたわたしの姿を想像してしまう。
独立はしてよかったなと思うし、わたしはどちらかというとフリーランスに向いているとは思うけど。結局はないものねだりなのだ。「もし新卒で別の会社に入っていたら」「大学生のときにもう少し真面目に勉強していたら」「小学校のときに引っ越しをしていなかったら」。そんなタラレバを想像して、(今の自分に十分満足しているはずなのに)今よりも少しだけ良い未来を想像する。
それなのに、結局は「でもそうしていたら今仲良くしてくれるあの子には出会えなかったはずだし、きっと夫とも結婚していない(だからこれまでの選択は間違っていなかったのだ)」と、自分に言い聞かせる。今の自分に満足している、というのも自分に言い聞かせているだけなのだろうかと思いながら、今日も生きていく。
11/4(月)
結婚式だった。大好きなみんなが同じ場所に集まる、そんなみんなや両親に大切な人をお披露目できる、そんな場だった。ありきたりな言葉だけれど、結婚式というのは本当にそういう場なのだ、うれしくて幸せな場なのだ、と思った。
一度も涙を見たことがない父がその日1番会場で泣いていて(まさに大号泣、正装用のグローブをびっちょりにしていた)、母はわたしの友人代表スピーチに涙していて、愛されていると思った。わたしの周りの人みんなを、愛してくれていると思った。両親への手紙のときは隣でマイクを持っていた夫が手紙を先読みしてグスッとしていたし、わたしの周りには涙もろい人が多い。
想像以上にドレスの裾は踏んだし後から友達に突っ込まれるくらい姿勢が悪い瞬間が多かったけれど、本当にやってよかった結婚式でした。
▽11/28 追記
まだまだ結婚式の余韻は冷めず、Instagramに写真を投稿しながら「結婚式ネタいつまで引っ張れる?」「いつまで経っても『結婚式よかったよ』と言われ続けたい」と夫と夜な夜な語る毎日です。
11/16(土)
夫と話しているとわたしは自分の視野の狭さにびっくりすることがある。具体的な話を伏せたときにうまく伝わらない気もするのだけど、私は常に向こう3カ月、夫は常に向こう5年を見ている感じ。私は1カ月先と5年先をそれぞれ断片的なものとして捉えてしまうけど、夫のなかでは1カ月先と5年先がきちんと地続きである感じ。
書いてみるとただわたしがアホなだけか…?とも思うけど、本当に、夫と話していると「うわ、そこまで考えてなかった......」と思うことが多い。家族として生活するうえで、ずいぶん助けられている。
それに、わたしは自分のことで精一杯なのに、夫は「家族として」どう進むのがベストなのか、どう進みたいのかをきちんと考えてくれて、きちんと言語化して伝えてくれる。それなのにわたしの決断は尊重してくれて、最終的に自分の理想とは離れたとしてもそれを決して顔や行動に出さない。「やりたいようにやっていいんだよ」と言うのは簡単だけど、そのときに「(でも本当はこうしてほしいんだけどね)」というちょっとした願望を表情や声のトーンに少しも含ませない人がどれだけいるのだろうか。
こういうところが夫のすごいところだよな、と思う。決して自分のエゴを押し付けない。わたしがご機嫌でいることを第一に考えてくれている。手前味噌ながら、ものすごい愛だ(そして、わたしは同じだけの愛を持って夫に接することができているだろうかと不安になる)。
そして少し深い話をするたび、話してみないとわからないもんだ、と感じる。わたしたちはもともと他人で、夫婦になった今だって血がつながっているわけではない。血がつながっているからすべてを理解できる、とは微塵も思わないけど、それでもわたしたちはまだ3年半ほどの時間しか一緒に過ごしていないのだ。毎日のように顔を合わせていても、他の夫婦と比べて一緒にいる時間が長くても、言わなければ伝わらないことのほうが多い。
「夫はきっとこう思っているだろう」「わたしの気持ちもわかってくれているはずだ」なんて、どれだけ自己中心的なのだろう。これからも会話を繰り返しながら、わたしたちらしい関係性をつくっていきたい。
11/25(月)
ときどき、この人とはどんな距離感で、どんなわたしで接していたっけ?と思うことがある。
ライター・編集者として本名で活動しているわたしと、本のアカウントで匿名で活動しているわたしは、「わたし」として発信する内容が違う。プライベートだって、実家でのわたしと大学時代の友人の前のわたしと夫の前のわたしとでは顔が違う。
こういうとき、決まって平野啓一郎さんの「分人」という考え方が頭に浮かぶ。相手や環境ごとに異なる人格があってそれら複数の人格すべてを「本当の自分」だと捉える、という考え方で、これは本当にその通りだ、と思うのだけれど。
だけど、わたしはあくまでもわたしであるから、2つの分人が同時に登場する場面がある。たとえば、お仕事で知り合った方とプライベートのSNSがつながったとき。たとえば、よく行くお店の店員さんに私を私として認識されたとき。たとえば、幼なじみに読書記録用のアカウントをフォローしてもらったとき。
見られたくない部分を見られているようで、むず痒くなる。頭のなかで、「おーい、その顔はその場面には適してないよ」「ちょっとまって、その人にそこまで見せていいの?」なんて会話が繰り広げられる。この2つの分人を抱えた頭を持つ人物もまた、「わたし」の分人なのだろうか。
ときどき、とりとめもない文章を書きたくなることがある。「ああ、こんな感情があったのに」を記録したくて、以前も毎日日記を書いていたのだけれど、毎日、と決めてしまうと「書かなきゃ」が先行してしまう。それがわたしの性格にはどうしても合わなくて、日記は結局やめてしまった。だけどそうすると今度は「書きたい」感情がむくむくと出てきて、iPhoneのメモ帳に人知れず文章たちが残されていった(そしてそうなると誰かに見てほしい、という気持ちが出てくる)。
だから、数日間分溜まったときにnoteに投稿することにした。日記だけど日記ほど定期的なものではない、エッセイと呼べるほどかっこいい(エッセイ=かっこいいものではないと思うけど、わたしのなかではエッセイはかっこいいものだ)ものではない、わたしの感情の置き場所。
日記を書くと決めたり、やめたり、かと思ったらまた始めたり。ブレブレだけれど、それはそれでわたしらしくて良いんじゃないか、と思う。見てくれる方がいたらうれしいです。
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