「夫のため」と思いながらする行動は果たして愛なのだろうか
向坂くじらさんの『夫婦間における愛の適温』を読んで、料理=愛情と捉えるのはおかしいのではないか、という考えに深く感銘を受けた(下記一部抜粋します)。
“作った食事の写真を母に送ると、「あなたの愛情が伝わるね(にっこり絵文字)料理の力だね!」と返事が来る。わたしは断固としてそれに反対する。”
“ついでに、詩人と国語教育という仕事をしていてときどき言われる、「言葉の力だね!」というやつにも、断固として反対したいと思っている。「言葉の力」といわれているもののほとんどは、知識の力であったり、信仰の力であったり、性愛の力であったりする。(中略)「言葉の力」というときに、言葉そのものの話がされることは少ない。「料理の力」というときに、料理そのものの話がされることが少ないように。”
我が家の夜ごはんはだいたいメインが大皿にドン!で、良くて副菜が1〜2つ。見栄えは良くないし、外食に比べればマシだが大して健康的でもない。Instagramでよく目にする、彩り豊かで器まで凝られた食卓を見ては自分の料理と比べ、「なんと質素な...」という気持ちになる。わたしだって本当は1品ずつ小鉢に盛られた料亭のような夕飯に憧れるし、そのような家庭でなくてごめんよ、という夫に対して申し訳ない気持ちは常に抱えている。
その一方で、そもそも毎日作っているだけでえらいのでは?思うことも多い。実際に夫はわたしの料理に文句を言ったことはないし、何を食べても(そしてそのメニューが10回目の登場だったとしても)ひと口目を食べたら必ずまるで生まれて初めてそれを食べたように「うまっ」と言う。まあ、これに関してはただの白米を口にしても言うのでもはや条件反射なのだろうけど。きっとわたしが夕飯を用意していなくたって怒らない。
でも、そもそも品数が少ないことを夫に申し訳ない気持ちがある時点でわたしも料理にかける時間や手間によって伝わる愛情の大きさが変わると思っているのだろうか。「美味しいものを食べてほしい」という感情はたしかに持っていて、それは愛なのだと思うけれど、だったら、そんな料理を少しでも面倒に感じてしまったら、それは夫への愛が不足しているということなのだろうか。
一緒に住み始めてから、こういうことがたまに起こる。夫のために、夫が喜ぶと思って何かをしてあげたい気持ちと、「そこまでやる必要はないんじゃないの...」という気持ちのぶつかり合い。どう考えてもわたしの身勝手な感情なのだけれど、グルグルと考えては落ち込む。
ついさっきも会社にいる夫から「これから出社メインになるかもしれない(これまでの夫は出社と在宅が半々くらいの割合)」と連絡が来て、「じゃあもう少し家のことはわたしがしようかな」という気持ちと同時に、「えっ、わたしの働く量は変わらないのに?今まで通りで良くない?」という2つの気持ちが飛び出てきた。夫に「家事をやれ」と言われているわけではない(言われたことも一度もない)し、そもそもわたしたちはおたがいひとり暮らしの期間が長かったから、自分のことは自分でできる。
それに、きっとわたしがグルグルと考えていることを知ったらきっと夫は「無理する必要ないよ〜」と言ってくれるけれど、すると今度は「やらない」を選択した自分に対して嫌悪の気持ちが湧き出てくるのだ。
これはわたしの愛の温度の問題なのだろうか。
“料理がおいしいのは、もちろん、愛情のためではない。しかし、料理とは離れたところに、それでいて同じ時の上に、布置するようにして愛情もまたある以上、夫は好きなときに好きなようにわたしの愛情を受け取ることができる。そして、受け取られてしまったものに関しては、こちらからはもう手出しができない。
それが料理の力だとは思わない。わたしの力とさえ思わない。ひとえに夫の感受性の力である。”
それでもきっと、向坂さんもこう言っていたように、夫もわたしが料理をすることそのものから愛を受け取ってくれているのだろうと思う。それに、家族になったのだから、おたがいの愛を受け取る受け取らないの話ではなく、愛が溢れた家を一緒に作っていけたらと思う。そんなことを思いながら、今日も大皿をドン!と出す。いつも洗い物をしてくれて助かっています。