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生前は流行画家だった洋画家・浮田克躬

かつて、浮田克躬(1930〜1989)という洋画家がいました。主に日展と一水会を拠点に活動し、生前は流行画家で、昭和会展昭和会賞を受賞した関係もあって今でも日動画廊本店(東京・銀座)には良く絵が飾られていますし、『開運!なんでも鑑定団』(テレビ東京)では割と高い査定額が付きます。

『東文研アーカイブデータベース』には以下の経歴が記載されています。

日展評議員、一水会会員の洋画家浮田克躬は、8月30日午後6時13分、心筋こうそくのため東京都新宿区の東京医科大学病院で死去した。享年59。昭和5(1930)年2月17日、東京都杉並区に江幡寛夫の長男として生まれる。実母が病身のため幼少期から母方の祖父浮田和民に養育され、のち両親離婚のため浮田姓を名のる。昭和19年第1回聖戦美術展を見て洋画家を志し、同17年神奈川県高座郡茅ケ崎尋常高等小学校尋常科を卒業して藤嶺学園藤沢中学校に入学し、同校の図画教師灘波秀二(新制作協会)および一水会の画家石川真五郎の指導を受ける。また19年より小林萬吾のもとで石膏デッサンを学ぶ。翌20年藤沢中学校を修了して東京美術学校油画科に入学。安井曽太郎、伊藤廉に師事し、25年同校を卒業。同年第14回新制作派協会展に「集荷場」で初入選、翌年第3回日本アンデパンダン展に「雪降る窓」「高原」を出品。29年より一水会運営委員の田崎廣助に師事し、同年より一水会展に出品。32年には一水会のほか日展にも入選。33年第20回一水会展に「場末の河」「ガード下の風景」を出品し安井奨励賞を受け、同年の第1回日展に「丘の工場」を出品して特選受賞。34年春北海道を初めて訪れ、その雪景色に画因を見出して以後、しばしば足を運ぶ。同年一水会会員となり、39年第26回一水会展出品作「龍飛岬」で会員佳作賞、翌40年同展に「冬(一)」「冬(二)」を出品し会員優賞を受賞する。42年3月、渡欧しフランスを中心に8ケ国を巡遊。以後たびたび渡欧、外遊し、西洋の都市を描いた堅牢で構築的な作品が多く描かれる。同年の第10回日展出品作「サンマルタン水路」で特選受賞、43年第3回昭和会展に「バスティーユの冬」を出品して昭和会賞を受賞。同年一水会会員に推挙される。また、49年日伯美術連盟評議員となって50年の第2回日伯現代美術展に際し渡伯。この後、西欧に加えて中南米の風景が描かれるようになる。56年第13回日展出品作「シシリーの家」で会員賞受賞。61年、前年の第17回日展出品作「城砦の島」で第4回宮本三郎記念賞を受けた。初期から風景画を中心とし、絵具を塗り重ねた重厚なマチエルを特色とする画面には、構図、色彩に対する鋭利な感性がうかがえる。61年5月、宮本三郎記念賞受賞を記念した浮田克躬展が行なわれており、年譜、文献目録等はその図録に詳しい。

『日本美術年鑑』平成2年版(251-252頁)

ここに書かれていない経歴としては1988年に日展内閣総理大臣賞を受賞したことと1987年に『浮田克躬画集』(求龍堂)を出版したことでしょう。また、 田中穣『一水会五十年史』(中央公論美術出版、1988年)によると一水会内では最高位の運営委員(当時3名)に次ぐ常任委員(当時31名)の地位にいたことが分かります。

主な受賞歴として昭和会展昭和会賞(1968年)、日展会員賞(1981年)、宮本三郎記念賞(1986年)、日展内閣総理大臣賞(1988年)などがあり、日展洋画部門では数少ない美術市場で売れる画家だったことが分かります。実際、絵の水準も日展洋画部門にしては高いです。一応、作品画像を数点挙げましたが、グーグル検索しても良い作品がなかなか見つかりませんので出来れば図書館で『浮田克躬画集』(求龍堂、1987年)を閲覧して下さい。

浮田克躬は画家としてはこれからという1989年に59歳の若さで亡くなったのですが、その前年に日展内閣総理大臣賞を受賞していることを考えると、長生きしていれば日本芸術院賞を受賞し、日本芸術院会員の座に就いていた可能性が高いです。

一水会の日本近代美術史及び洋画壇における役割についてはここでは書ききれませんので「コトバンク」の項目と一水会の公式サイト内の以下のページをご参照下さい。何人もの文化勲章受章者、文化功労者、日本芸術院会員を輩出しています。なお、グーグル検索しても同名の新右翼団体が数多く出てくるので推奨できませんし、ウィキペディアの項目はいい加減です。

ただ、1989年に浮田克躬、1992年に小松崎邦雄という人気画家が相次いで亡くなり、同年には会の総帥であった高田誠(日本芸術院会員、文化功労者に選ばれ、日展理事長を歴任)が死去し、それ以降は芸術院会員を輩出できなくなり、日展系会派としては斜陽化するのですが、もし浮田克躬が長生きして芸術院会員に就いていれば一水会は1990年代以降も日展洋画部門における名門団体として存続したのではないかと思われます。

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