洋画家・熊岡美彦及び過小評価されている戦前の官展系洋画家
戦前、熊岡美彦(1889〜1944)という洋画家がいました。まず、作品を幾つか掲載致します。
「東文研アーカイブデータベース」の「熊岡美彦」の項目に経歴が書かれているので引用致します。
また、「UAG美術家研究所」の「熊岡美彦」の項目にも経歴が書かれているので引用致します。
あと、平園クリニック(神奈川県平塚市)の公式サイトの「絵のある待合室」に院長・平園賢一氏のコレクションである熊岡美彦《腰かけたる裸女》(油彩、1925年)の説明文があるので引用致します(作品画像は下のサイト内にありますので御覧下さい)。
熊岡美彦の経歴で重要なのは東京美術学校を卒業して帝展特選2回を経て1925年、36歳の若さで帝国美術院賞を受賞し、一方で1924年に槐樹社を結成し、同社解散後の1930年に現在でも日展洋画部門の有力会派として存続する東光会を結成したことでしょう。また、1931年に熊岡洋画研究所(熊岡絵画道場)を設立し、森田茂ら数多くの弟子を育成しました。戦時中は従軍画家として中国を訪れています。
これらを見ると、熊岡美彦は存命時はかなりの大物洋画家であったことが分かりますが、現在、忘れ去られているのはおそらく、終戦の前年の1944年に56歳の若さで急死して、戦後の日展で活動ができなかったからだと思われます。もし熊岡美彦が長生きして戦後の日展で活動をしていたら日展洋画部門及び東光会で重きをなし、日本芸術院会員に選ばれていたのは確実です。
熊岡美彦の画集・展覧会図録は生前に出版された『熊岡美彦滞欧画集:附紀行及感想』(美術新論社、1930年3月)を除けば図録『熊岡美彦回顧展』(茨城県立美術博物館、1976年5月)のみです。もう50年近く本格的な回顧展が開催されていないのですね。平園賢一氏は前出の引用文で「図録の中で中村伝三郎氏は、不当に低評価を受けている戦前の官展作家たちに再評価の機会を与えるべく忠告している。当にその通りである。その代表が熊岡美彦である。」「絵好きには一定の高い評価があるものの世間では忘れられている感がある。近い将来、熊岡の回顧展を是非開催してほしいと願っている。」と仰っていますが、私もそれを切に願います。
前出の図録『熊岡美彦回顧展』(茨城県立美術博物館、1976年5月)で中村伝三郎氏(美術史家)は戦前の官展系洋画家が不当に過小評価されているという主旨のことを述べていますが、確かに戦前日本の洋画家で日本美術史に名を残している人は二科会、春陽会など在野系に多く、官展系は黒田清輝や藤島武二、岡田三郎助、和田英作、和田三造、中沢弘光、南薫造、鹿子木孟郎、満谷国四郎、中村彝、前田寛治ぐらいです。
しかし、官展系では山本森之助、白瀧幾之助、中村不折、石橋和訓、斎藤与里、青山熊治、伊原宇三郎、佐分真、野口謙蔵、片多徳郎、上野山清貢、都鳥英喜、柚木久太と言った洋画家はマイナーですが画才はあります。これらの画家は回顧展が開催されることも滅多にありませんし、画集・展覧会図録も少ないですが、きちんと研究がなされるべきだと思っています。
また、官展系には画集や展覧会図録が出版されたこともなく美術館で作品が展示されることが滅多に無いため、当時のカラー絵葉書でしか絵の内容を知ることができない超マイナーな洋画家がおりますが、池辺鈞、金澤重治、小柴錦侍、井垣嘉平、永地秀太、草光信成、浜地清松と言った画家は画才があります。それらの画家もきちんと研究がなされるべきでしょう。
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