藍を愛でるInterview|藍農家 西村尚門さん 地元京都で藍を育てる・染める・伝える暮らし
インタビュー:オオニシカナコ、出射優希
構成:出射優希
藍農家を軸に分業をつなぐ藍との関わり
出射優希(以下 ——):西村さんは、藍を育てて、すくも作りから、作家としても、幅広く活動されているんですよね。
西村尚門さん(以下 西村):そうですね。なかでも僕は、かなり「藍農家」に寄っていると思います。ものをつくったり、体験の機会をつくるようなアウトプットもしていますが、周りの藍染作家の方と僕の違う点が何かかといえば、僕が藍農家である事じゃないかな。
——「農業」が軸になっているんですね。
西村:はい。藍染もだいたい分業のものづくりなんですよ。例えば、徳島にいる僕の師匠は、藍を育てて、すくもを作るまでの専業農家です。これを藍師と言います。僕は今500kg前後の藍を栽培してますが、師匠のところでは毎年、すごい量の藍を採ってね。全国にいる紺屋や作家の方々へすくもを出荷して、その方々は染色液を仕込んで作品を作る。これがいわゆる染師という人たちで、分業しています。
——藍師と染師、農家と作家で分かれているんですね。
西村:はい。土から種から染めるまで点を追って見たいので一貫してやっています。でもやっぱり藍師に寄りますね。農家をやっていたら、この5月くらいから畑に出る日が多くなるので、作品をつくる時間が少なくなります。
そんな事もあって、藍農家の西村ですって言うようにしてますね。
年々、藍染をしたいという声は多くなってきてるように思いますが藍農家はなかなか増えないですね。
オオニシカナコ(以下 オオニシ):汗をかく仕事ですもんね。
西村:そうですね。便利な世の中になってきたからこそ、農家はしんどいし、汚れるし、稼げないというイメージがまだ残ってるように思います。米農家よりも料理店、漁師よりも寿司屋が注目され、利益が大きい。藍もそうです。
藍染をしたい人にとっては、すくもをどこから手に入れるのかという点は難しい問題の一つですよね。僕の師匠も出荷先は決まっていて、収穫できる量も毎年ムラがあるので、すくもを欲しい人に対して生産量が追いついていないのが現状です。
古布や襤褸(ぼろ)と出合ったことから、徳島で2年間の藍農家修行へ
——西村さんが藍を知る、藍農家になるきっかけはなんだったのでしょうか?
西村:進学はせず、とりあえずで高校を卒業してしまって、自分のやりたいことを探してたんです。昔から自分が納得しなかったら興味を持てないし、行動しない。でも興味が湧いたことにはどんどん向かっていくタイプでした。
——やりたいことを見つけるのは意外と難しいですよね。
西村:はい。当時、18歳の自分が「好きなこと」ってなんだろう?って考えたときに一つ、ファッションが好きという点でした。ファッションはどこか「自分らしさの表現」と繋がる点もあって。国内外のブランドに触れてみるうちに、背景の見えるものづくりばかりに目がいくようになってたんです。シャツ1枚だとしたら、それがつくり出されるまでの背景、そして布を見るようになるんですよね。この色が好き、この柄が好きというのにはじまり、同じ綿でもこっちの方が好きやな、とか。骨董市にも行くようになって、そこで、古布や襤褸(ぼろ)と出合ったんです。擦れたり破れたりして使い古した布を大事に手縫いでつぎはぎして世代を越えてきた美しい布です。
「なんやこの美しい布は」と。調べると、日本の藍は奈良時代からはじまり、江戸時代には庶民の暮らしに藍染が深く浸透していた事、インド藍や合成染料により日本の蓼藍の生産が衰退したものの現代にまで細々と受け継がれてきた事を知りました。
それが、22歳ごろかな。当時、会社員をしていたんですが、24歳で辞めて、気づいたら蓼藍の栽培が日本一である徳島へ移住してました。
——すごい急展開ですね!
西村:そうですね。ほんまに自分の話かなって思うぐらいおもしろいです(笑)
でも、すごく自然な流れだなと思います。
——自然、というと。
西村:みんな進学して、会社員してっていうなかで、アパレルをしたり、パン屋やってみたり、サッカーの仕事をしたり、僕はずっとフリーでやりたいことを探していて。いろんなことをするなかで、会社員として勤めて3年目くらいの時期に辞めたんですね。その年齢の頃って、今居る場所で頑張るのか、辞めてより良い道へ進むかっていう、人生の節目の時期でもあって。僕はやりたいことが見つかったので、会社員を辞めることにしました。
オオニシ:それで、藍農家さんのところに飛び込んで?
西村:いや、まずは藍の勉強をすることだけ決めて徳島に移り住んだっていう感じです。何考えてたんかなぁ。藍って面白い、藍を勉強したい、徳島へ行きたいと思って引っ越して。
オオニシ:すごい、住む場所から変えたんですね。
西村:はい。京都から徳島まで3時間くらいあるんですけど、あの場所へ行ってみたい、この人に会ってみたい、というのがあっても毎回、京都間を往復するのは大変ですよね。
オオニシ:確かに。西村さんは軽やかですよね。フットワークが軽い。
西村:そうかもしれないですね。移り住んだ方が早いっていう、自分としては合理的な理由でした。なんかね、自分の直感に従っていると、どんどん直感が研ぎ澄まされていく気がします。まずは足を運んで、五感を使って触れてみるっていうのが、いいんじゃないかと思ってます。自分らしくないことをしている時間はもったいないなって。
アパートの ワンルームではじまった藍染との暮らし
——古布を通して藍を知ったとき、どんなふうに藍染に触れていったのでしょうか。
西村:本を読んだり、ネットを見たりしてましたね。でも藍を知る大きなきっかけとなったのは、服飾の学校を出ていた男友達でしたね。いろいろ詳しかったから話も聞いたし、草木染めも教えてくれて、一緒に染めてみるかという話になったんです。最初は蘇芳染と茜染。自然から色をいただくっていうのは、それがはじめての経験でした。でも、蘇芳染と茜染にハマるかっていうと、僕はハマらなくて。藍染の布と出会った時の衝撃から取り憑かれたように調べ、話している自分が一番、自分らしく感じたんです。ほんま好きなんやなって。でも、藍染をやろうと思っても自宅ですぐにはできない。
オオニシ:たしかに。できないですね。
西村:はい。色んな藍染の方法があって文献に書いてあっても、材料の配合から発酵過程が難しいことがわかるし、まずすくもがなかなか手に入らない。徳島に移り住んでから、ピザ屋でバイトをしつつ、京都にある田中直染料店というところですくもを買って、自宅で藍を建てる勉強を始めました。アパートのワンルームにブルーシートで床も壁も養生してね(笑)同時に、藍に携わるいろんな方々へチャリを漕いで会いに行って、藍染のことを勉強しに来ているこういうものです、と伝えて、ある染師さんの工房に通わせてもらいながら、自宅で手を動かしていました。
——はじめは「染め」に触れていったんですね。
西村:はい。自分に今すぐ始められる事から優先的に触れていきました。工房へ通わせてもらう中で、こういう人もいるよと教えて頂いた人が、僕の師匠です。
師匠に会うまでに約一年間かけましたね。
——作家になろうという思いはありませんでしたか。
オオニシ:確かにその路線もありましたよね。
西村:そうですね、染師さんの工房を出入りしていた時も「農業と染色どっちがしたいの?」って聞かれましたね。
どっちかしかできないから、どっちがやりたいのか、ということです。僕は「農業からしたい」と答えました。当時、専業の藍農家は5軒しかないと言われていて、もしルートが違ったら違う藍師の元で学んでいたかもしれないし、誰とも会えないまま、染色の勉強だけを続けていたかもしれないですね。だから、ほんとにご縁だったのだと改めて思います。
——師匠の元では、どんなことを学ばれていたのでしょうか。
西村:藍の栽培からすくもづくりですね。自分で栽培してすくもが作れるようになることが目標だったので。2年間とはじめから決めて、栽培方法を学んだら京都へ帰りますと。
——はじめから期間も伝えていたんですね。
西村:そうです。そこから2年間、精神的にも体力的にも色々と叩き込んでくださいました。
——精神的にですか。
西村:はい。だいたい刈り取りの時期には朝の5時くらいから正午まで、前日に採った葉っぱの選別をします。真夏の真昼間は暑くて倒れてしまうので、昼ご飯を食べて休憩して、15時から夜暗くなるまで刈り取り。そんな生活を続けてました。
僕自身はサッカーをしてたので、運動もしてきましたが、使う筋肉も違いますし、夏はめちゃくちゃ痩せましたね。おじいちゃんがやってた米の栽培も手伝ったことがなかった僕に、ほんとすべてを叩き込んでくださいましたね。
京都へ帰り見つけた「藍」を体験してもらうこと、伝えることのおもしろさ
オオニシ:藍の体験を企画するようになったのは、何かきっかけがあったんですか?
西村:京都に帰ってきて藍の栽培と藍染をしてるから、もし興味あったら体験しにおいでって知り合いや友人に声をかけたんです。みんなそれぞれデザインを決めて染めて、最後に水洗いをして藍色になった時のリアクションがすごく良かったんです。「もしかしたら、これかもしれない」って。最初はファッションブランドを立ち上げようかとも考えてましたけど、みんなが求めているのって、結局「モノ」より「コト」なのかもしれないと思ったんです。
——それで今の活動に繋がっていったんですね。
西村:そうですね。最初は藍染体験からはじまったんですけど、一時間やそこらで終わる体験だけじゃ表現できない、伝えられないことが出てきて。僕にとって農は日常であり、楽しいのはもちろん、やるべき事という感じだったんですよね。気付けば、農もやってみたいという声が上がるようになっていて。受け入れしてみたら、おもしろく価値がある事なんだな、と思いました。それをきっかけに、種まきから苗植え、収穫やスワッグ作り等の全部が体験イベントになっていきました。周りで応援して下さる人たちに楽しんでもらうことが自分の楽しさ、やりがいなんですよね。
オオニシ:体験してもらうことっておもしろいですよね。それぞれ違う経験をしているから、感じることも見つけることも違うし。
西村:そうですね。人と人の出会いの場所になるのもおもしろいと思い始めましたね。
みんなで手を動かすと自然と心の距離も近くなるし、次はこんなことしようって、それぞれが仕事や遊びで繋がっていく。
——農業と制作から、場づくりにも広がっていったんですね。
西村:最近は、自分がやるべきことを考えるようになってきましたね。せっかく日本に生まれたので、日本にある本当に大切なものを次の世代へと繋いでいくこと。また、国内だけでなく、世界的に残るものを作りたい、伝えていきたいと思っています。そこにロマンも感じているんです。
ー 西村 尚門(にしむら なおと)ー
藍師・染師。京都生まれ。手仕事に興味があり、古布や襤褸(ぼろ)と出合ったことから、藍染めの奥深さに魅了される。24歳で日本の藍染め染料タデアイの一大産地である徳島県へ移住。3年の修行を経て、地元である京都伏見にて藍の栽培、染料造り、染色をしている。「自分の手で使い古した大切なモノを自分の手で染め直す事で、より永く愛してほしい」という想いから藍染体験を中心に活動中。
インスタグラムアカウント: @draw_dots_dawn
🌱Profile🌱
オオニシカナコ(おおにし かなこ)
染めもの作家 藍を愛でる運営
絞り染めを用いて作品制作をおこなう他、身の回りや地域にある、ものやことを素材にものづくりやイベント企画を行っている。
出射優希(いでい ゆうき)
ライター。京都芸術大学・文芸表現学科を卒業。ものづくりを行う人へのインタビューを行なっている。藍の學校では、オオニシカナコさんとともに「藍を愛でる」の活動を記録し、伴奏している。