挫折の果てに構築された、チャレンジ精神【30年の自分史】
じっとしていられない!マグロ時代の幼少期
1995年2月。北海道北見市にて帝王切開でこの世に誕生。「明日香」「稲穂」などの名前の候補があった中、姓名判断でNGをくらい、「愛」という名前に。「齋藤愛」は、呼びやすく親しみやすさがあるという両親の思いがあり、それが叶ったのか今でもフルネームで呼ばれることが多々あります。
当時のことは自分の記憶より両親の方がよく覚えていたので話を聞いたところ、とにかくアクティブだったとのこと。保育園や公園にある遊具で、いつも遊んでいました。
親の話によると、ソファには座らずソファの上に立ったり、家にお客さんが来て大人たちで喋っている中でテーブルの上に乗っかってはしゃぎまわったり。
「愛ちゃんは、女バスだね」と知り合いから言われていたとか。
親はなぜか強く叱らなかったらしいです。
また押し入れから飛び降りて思いっきり膝をぶつけたり、縁側で頭から落っこちたり、家の中を走り回ったり飛び跳ねたり、落ち着きがなかった幼少期でした。
(「静かにしてなさい!じっとしていなさい!」と言われるほど、動き回ってた記憶はあります)
基本的にただ動き回っているだけでしたが、時には目標達成のために黙々と練習に取り組んでいました。
鉄棒では連続で10回連続で回れるまで1人で練習をしたり、うんていでは1本飛ばしで進めるようになるまで練習をしたり。
当時の保育園の先生の通信簿を見てみると、「友達との遊びには目もくれず、1人で練習していた」と書いてあり、今でも1人行動をよく取るのは昔から変わらないなあと思いました。
親からいまだに言われることは、とにかく泣き声がでかかったこと。
電車の中で泣く赤ちゃんを見ては、「あんたはあの子の5倍は泣き声でかかったよ」と言われるくらいでかかったらしいです。
保育園の先生の通信簿にも同様のことが書いてあったので、どうやら親の誇張した話ではなさそうです。
兄の真似をするのが好きだったので、いつも兄の後ろをついて回ったり、兄と同じ物を買ったり。「ついてくるな!」と言われてもついていってたので、それなりに兄のことが好きだったのではないでしょうか。
他にも周りの女の子はみんなスカートを履いているのに、頑なに断ってズボンを履いて登園していました。男の子っぽい格好に憧れていたのか、かわいい系の洋服は卒園式などの特別な日以外はほぼ着ていなかったです。
今でもじっとしているのが嫌いで、月に1回旅行に行ったりweworkのオールアクセスをフル活用して日々場所を変えて作業をしています。
やはり負けず嫌いな小学校低学年
友達の1人に誘われてバスケを始めたのが小学校3年生。当時からめちゃくちゃ負けず嫌いで公園での1on1では反則してでもボールを取って勝ちにいっていたことを覚えてます。
当時からオフェンスは褒められることはあってもディフェンスで褒められた記憶はなし。
攻めて攻めて攻めまくるバスケ女子でした。
また小学2年生の時に高校まで続く訳ありの友達P子に出会います。
P子のおかげで私は大きく成長できたと言っても過言ではないです。
バスケと勉強と習い事。イジメを受ける小学校高学年
〈バスケ〉
3年生からスタートしたミニバスでは、チビで全然上手くないのにスタメンとして試合に出られていたからこれで満足だなーと思っていました。
〈チームは強いけど試合には出られない or チームは弱いけどエース〉のどちらが良い?という質問には、後者を選んでいた記憶があります。
※今だったら絶対前者を選びます!笑その方が吸収できることがあるし大きなことを成し遂げられそうだから。
小学2年生の時に出会ったP子も5年生からバスケをやっており、運動神経も良かった上に私よりも身長が10cm高く、6年生の頃にはチームのエース的存在になっていて、めちゃくちゃ悔しかった覚えがあります。かといって私は自主練に励むわけでもなく、その子と同じ練習量しか練習をしないから、もちろん技術で上回れるわけもなく。ただ親指咥えてるだけの人間でした。
バスケで華が咲き始めるのは高校からだったので、ただ仲間と楽しくバスケをするのが好き。くらいの感覚でした。
〈勉強〉
5年生になると歴史の勉強がスタートして、人生で初めて40点を取った時の母親の顔は今でも忘れません。怒り+驚き+呆れた顔で「40点取ったの?」と言われました。
兄が歴史が大得意だったこともあり、私は歴史ができないんだ。とも思いました。
そのあたりから、「テストで良い点数を取らないとやばいんだ!」と思うようになって、母親と復習を徹底してからは、テストの点数は90点以上に戻り、褒められたことも覚えてます。もちろん私も嬉しかったです。ただ、要点を抑えて教えてくれていたのか理解度が深まった感覚はなく「どんな形でも復習をやれば良いんだ」という歪んだ考えにもなっていました。
またこの頃から「良い点数を取らないとお母さんに褒められないんじゃないか」という思いが出てきて、テストの点数には敏感にもなっていました。テストの点数で友達のレベルも無意識にわけていました。今でも小学生の時に成績が良かった友達の顔と名前は覚えています。
〈習い事〉
週に1回ピアノレッスンを受けていましたが、当時はこれが本当に苦痛でした。当時土曜日のレッスンだったので、金曜日と土曜日が本当に嫌いな曜日でしたね。
練習したら上手くなるけど、いかんせん練習をしない子だったので一向に技術は上達せず。ただただやらされる日々。「辞めても良いよ」と親に言われるも、そう言われると途中で逃げ出したみたいな感覚になって嫌だなと思い、嫌なくせに頑なに辞めず結局中学2年生までの8年間習い続けました
今では、「生まれ変わるなら天才ピアニスト」と思うほど、今の自分に才能はないけど、できたらかっこいいな〜と憧れる職業の1つです。
今でも、途中で放り出すことは嫌だし、自分がこう!と決めた道は頑なに譲らない節があります。
また小学5年生からイジメがスタート。私も標的にされて、無視される、仲間に入れてもらえない、聞こえるように悪口を言われる、理不尽な要求をされるなどが続き、学校に行くのが嫌になっていました。今も時々思い出すけど本当に嫌だったw
今考えたら、「なんでハッキリ言わなかったんだ?」と思いますが、当時は”怖い”という感覚が強かったです。
髪型をオカッパにしたことから、「カッパ」と呼ばれ始め、これは社会人になってからも呼ばれてましたw(今はもうカッパ呼びする人とは会っていないです)
暗黒時代の中学生
勉強面は年々低迷していき、学年順位も真ん中くらいに。本格的に親から心配されるようになりました。
この頃から「勉強しなさい」とよく言われるようになりましたが、言われれば言われるほど反抗していたのを覚えています。ここでも天邪鬼発揮w
「わかったからあっち行っとけーーーーー!」って親に言ってましたね。
なのに高校は地域で1番の進学校に出願。たまたま父親が地域で2番目の進学校の先生をやっていて、その高校だけは是が非でも避ける必要があったため、もう必然的に1番の方にしかいけなかったんですよね。
まあなんとかなるだろうと思っており、「勉強はやらなきゃいけないけど、できなくても良いや」と投げやりになっていました。塾以外の時間は友達とプリクラを撮ったり家で遊んだりして勉強はほぼやらずに受験に挑み、不合格。(そりゃそうだ)
人生で父親と会話した記憶は多くないのですが、その時だけは「良い経験だ。準備をしなかったらこういう結果がついてくるということを知れた」という言葉をかけてくれたのを覚えています。その時に「大学受験はまじで頑張ろう!」と心に誓いました。
ただその後奇跡の追加合格を果たし、結局最下位で志望校に進学しました。
また、小学校ではクラスでイジメがありましたが、中学では部活でイジメが流行りました。
中学1年生の時は標的がコロコロ変わっていましたが、中学3年生では標的はほぼ私に。学年で1番賑やかな集団(ほぼバスケ部)にいましたが、なぜか9月あたりから仲間外れにされたり、自分だけ遊びに誘ってもらえなかったり、無視されたりしました。
ボスはP子。かわいくて頭も良くて周りからも信頼されてるように見えて、敵うはずもなくまた学校に行きたくない日々が続きました。
中3から高1の春休みでは、初めて携帯電話を買ってもらい、約1ヶ月の間は四六時中触っていたことを覚えています。あれは嬉しかった!
中学時代は友達がいなかったこともあり、「やることないなー。暇だなー。なんかやりたいなー。」と思いながらフラっと1人で自転車に乗って出かけたり1人でパークゴルフをしたりテニスで壁打ちをしたりして毎日を過ごしていました。(勉強しろよと今なら思う)
勉強ができない、仲間にも入れてもらえない、バスケもできない、みたいな自己肯定感爆下がりの状態で高校生に進みます。
学校に行くのが楽しみになった高校生
人間関係が8割くらいリセットされてそれがまず何よりも嬉しかったです!学校生活は楽しく、自分よりも勉強ができる人しかいなかったので”賢い人たちの仲間入りができた!”という感覚になっていました。
2年生の時は、メンタルが落ちて1ヶ月ほど不登校になった時期もありましたが、それ以外の学校生活はとにかく笑って過ごせていて毎日学校に行くのが楽しみになっていました。
小・中とイジメに遭って嫌われることが嫌だったので、自分の本心は言わず、とにかくなんでも笑い、なんでも許す性格になったこともあり、ちゃんと友達ができた感覚も味わえました。
自分のことを好きでいてくれる友達がいるのがすごく嬉しかったことを覚えています。
高校1年から3年まで1年に1人好きな男子ができましたが、全員同じクラスの席が近くなった人だったので、たくさん話して気が合った子には思いを寄せやすかったんだと思います。
常に好きな人はいたので、そういうこともあり学校が待ち遠しくて仕方なかったですw今考えたら意外と恋愛体質だった
ただ高校の時に付き合った人たちとは、付き合ってから距離が開くという現象が起きて全然うまくいかなかったですw
今でも一目惚れはしたことがなく、深い会話ができて、且つ気が合う人には心を許しているので内面で人を好きになることが多いです。
また人生で初めて、大恩師である部活の顧問に出会い、バスケを基礎から教えてくれて、どんどん上手くなっていくのが自分でもわかりバスケが本当に好きになりました。
幸運なことに地区で1番上手なガードとセンターが同じチームにいて練習自体が刺激に溢れており、必死にくらいついている自分がいました。
当時はシックスマンで悪い流れを変えるというのが私の役割だったのですが、スタメンじゃないことに異様に納得がいってなかったです。「自分が点数を決められるから試合に出させてくれ!」と本気で思っていました。めちゃくちゃ自信過剰w
結果的にプレータイムは他の選手に比べて長いにも関わらず、「もっと出してくれー!」と常に思っていましたね。
でも大人になってから改めて高校の時の試合のDVDを俯瞰して見てみると、それぞれに役割があってみんなに持ち味があって全員で1つのチームなんだなと感じました。
そこも踏まえて、本当に恩師には頭が上がりません。
高校はベース賢い子が多かったのでクラス内での変なイジメはなかったですが、やはり部活ではありました(主犯格はここでもP子。どんだけ登場するんだ私の人生に)
大恩師、先輩、同級生などのチームメイトのおかげもあり、高2の冬にはP子よりも(多分)上手くなっていた私は、日々の練習中もちょっとした嫌がらせを受けたり、男子と私が話していると露骨にイジってきたり。
また高3の高体連当日にはみんなの前で悪口を言われてストレスをため続けた結果、決勝戦当日の朝に胃腸炎になってダウン。
それでも最後の大会だから絶対出たい!と思い、38度の熱が出てる中、点滴を打って出場しチームは優勝。(アドレナリンてすごいと初めて実感した)
高校受験ほぼ失敗の苦い思い出があるので、部活を引退してからは勉強モードに切り替え1日12時間勉強する毎日でした。
ただ、やみくもに勉強していたので思うように点数が上がらず、”ただ勉強しているだけ”状態に。
P子は札幌に行くし、私と親とは喧嘩ばかりだったので、「北海道は出たい!」という気持ちだけは強かったです。勉強ができないながらもなんとか山梨の地方公立大学に合格。
本当は客室乗務員になりたかったから、教育学部よりも外国語学部などがある大学に行きたかったのですが、親や先生からは反対されていたので、大人たちが薦めていた教育学部に進みました。ただ心の中では大学に入ってから客室乗務員の道を目指せば良いやと思っていたことは覚えています。
「イジメとか複雑な人間関係とかもううんざり!」と思っていたので、誰も知り合いがいない土地でもう一度やり直したい。という思いを胸に秘めて大学へ進学しました。
小学2年生から高校3年生まで一緒だったP子のおかげで、「我慢・諦め・怒り・恐怖・不安・呆れ」などのネガティブな感情が常に土台にありましたが、それらの感情の裏側にはポジティブな表現もあることを大人になってから教えてもらいました。
それからは、「周りの人を明るくする、周りの人の良さを活かす、よく観察する、自分がいる土俵を全員で明るくする」などのポジティブな感情を持つことができました!(これかなりでかい!)
過去の経験があるからこそ、自分が本当になりたい姿を明確にすることができていると、今は思います。
そう考えると、過去の全てに感謝ですね。
人生で1番キツい部活の毎日。大学前半
念願の!華の大学生!とはかけ離れたかなり田舎の大学だったので、基本部活のジャージで登校。私服を着ると「今日デート?」と聞かれる始末。
いじられる生活はここにきても変わらなかったので、どうやら原因は自分にあると悟りましたw
ただ陰湿なイジメなどはなかったので平和な生活は送れていました。
部活は、関東3部リーグで超強豪というわけでもなかったのですが、週5練習+朝練はあったので割と真剣に取り組んでいたと思います。
基礎練、走り込み、筋トレ、体幹など、今考えたら当たり前に必要なことだったのですが、言葉を選ばず言うと地味な練習ばかりで本当にキツかったです。(大体日々のやることは地味に決まってるのに当時はそれが耐え難かった)
大学の部活で初めて主将を経験しましたが、チームがバラバラになっていき挫折。やると決めたからには頑張ろう!と意気込んでいましたが、キャプテンという肩書きができた途端肩に力が入って周りに上手く頼れず悪循環に陥ってました。今考えると、全部自分目線の言い方だったし、できない人にはキレてたし、とてもお手本にはできないキャプテンだったと思います。OGの圧力に言い返せず、”2部昇格”という、無謀な目標を立てて全くゴールに向かっていなかったです。
どこでエラーが起きてるのか、自分の何がいけないのかのFBをもらいながら徐々に改善していき、最終的にはチームはなんとかまとまり前年度よりも良い成績を残して終わりました。
海外旅に目覚めた大学後半
大学3年までは部活漬けの毎日でしたが、3年の冬に高校の同級生から1通のLINEをもらいTABIPPOと出会いました。
「世界一周って興味ない?」
もうその一言で世界一周・バックパッカーに猛烈に興味を持ち強い憧れを抱きました。JR中央線に乗りながら「なにそれ!?」と何度もTABIPPOのHPを見てはワクワクを募らせていました。
周りが世界一周してる人orこれから世界一周する人だらけで、”自分にもできるんじゃないか?”と思い、その場で大学の休学を決断。大学4年生になるタイミングで1年休学し世界一周一人旅へ行きました。一人旅とは言っても現地に住む方だったり友達と合流など半分以上は誰かといた旅でした。1番のハプニングは、インドでスマホがなくなったこと。しかも買い替えたばかりの当時最新機種iPhone8。絶望。この世の終わりかと思いました。でも落ち込んでいられずなんとかするしかないので、その場にいたインド人の力を借りてなんとか宿に到着。スマホがない状態で世界一周も面白そうだなと思い、スマホなしで旅を続行。紙の地図とコンパスを持ってアフリカや南米も行き、スマホがない分周りを頼ることができて交流も増えたのでそれはそれで楽しかったです!
ただ、1つ大きな気づきは「長期の一人旅はおもしろくない」こと。ご飯も絶景を見た時の感動も現地の人と話した時の発見も誰にも直接シェアできない。まーーーーそれはつまらなかったです。私の価値観に、「その時の思いをシェアする、深い会話をする」ということは確実に存在するなと思いました。
また私は客室乗務員になりたかったので、世界の航空会社をこの時見ましたが、丁寧さ・快適さ・清潔さでやはりANAが良い!と強く思ったことも覚えています。
帰国後は、就活に励みなんとか第一志望のANAに合格!!
30社以上エントリーしていたのにこの日まで1社も受かっていなかったので、電話がかかってきた時に叫びましたw
大学時代に人生で初めて、「親や先生から反対されてもやったこと」が、
・世界一周一人旅
・客室乗務員受験
の2つだったと振り返ります。
今考えたら、自ら応援してもらえる環境を作りに行ってたんだなと思います。
世界一周の時は、関わる人をバックパッカー経験者にしたり、客室乗務員受験の時は、エアラインスクールに通い一緒に闘う同志を作りました。
環境が変わると、「自分もできる!」という気持ちがどんどん強くなっていったことは鮮明に覚えています。
12年間憧れた客室乗務員は、OJT初日に飽きる
小学校5年生の時に乗った飛行機のCAさんが今までみたことがない華やかな方に見えてそこから無性にCAへの思いが溢れていました。
当時はGood luckやアテンションプリーズが放送されていたこともあってよりワクワクする世界に見えていましたね。
エアラインスクールに通ったり、何度も飛行機に乗ってCAさんに就活時のポイントを聞きに行ったり、マイナス7kgのダイエットをしたり、それなりに頑張ってなんとか合格!
胸を膨らませて入社しましたが、OJT初日で「同じことの繰り返しじゃないか?」と思ってしまい、辞めるのも時間の問題だと感じていました。
今振り返るとCA時代で1番夢中になっていたのは、同期と目標に向かって一緒に頑張ってた訓練期間の3ヶ月です。
・みんなで1つのゴールに向かって頑張る
・辛い時期を乗り越えた後に国内海外色んな場所に行ける
・訓練後には念願だった制服を着て飛行機に乗れる
という要素が集まっており、私にとっては1番濃い時間でした。
この時も、思ったことをストレートに表現して同期と喧嘩をしたり、不満が顔に出過ぎて訓練教官に思いきり目をつけられたりもしていました。
訓練のテストが10個ほどあり、そのテストに落ちたくない一心で同期と一緒に勉強をしていました。ただ私の場合は、"機内でお客様の安全を守るためにテストに合格する"のではなく、"ストレートで合格する"にこだわっていました。
テストで良い点数を取る。という囚われがここでも出ていたのかもしれないです。
そして前述の通り、「これは長く続けられない」と思いながら毎日を過ごし、フライトとフライトの合間など暇さえあれば転職サイトを見ていましたが、その時も「外資系CAになろうかな?でも日本を離れるのは違うな」「フライトは楽しくなくてもステイが楽しいから良いか」「合コン誘われなくなるのは嫌だな」「ベンチャー挑戦してみたいけど自分に向いてるとも限らない」など何かしらの理由をつけて挑戦しない日々が続いていました。
「自分がどうありたいか」よりも見られ方ばかり気にして、本当の自分の気持ちには蓋をし続けて1年が過ぎました。
それでも月の半分は日本各地や海外に行けたことや、サービスタイムを縮小するための習熟に励んだことなど、それなりに60点の人生を楽しんでいました。
フライトスタートから1年半ほど経った時に、コロナ禍に入りフライトが激減(フライトタイムが1ヶ月で3時間の時もありました)
年収は約200万ダウン。「いやいやシャレにならんて!」という状態。副業もNGだから稼ぐこともできない、かといって収入もないから遊びに出かけることもできない。
貯金残高が8万円になって、「いよいよやばい!」と本気で焦り出し、このままではダメだと思い副業解禁になってからはすぐに仕事を探しました。
1番最初に取り組んだのはUber Eats。最初は良いんですけどね、連日やるとめちゃめちゃ疲れます。結局2週間ほど経って、Uber Eatsのバイトは辞めて高校の同級生から仕事を一緒にやらないかと誘われ乗っかることにしました。
このコロナをきっかけに、「会社は守ってくれない。じゃあ自分でなんとかしなければ!」という思いが芽生え、まずは動くことができました。
自分の身は自分で守る意識ができたのも、この頃からです。
そう考えると、コロナの"おかげ"で人生が前に進んだのかもしれません!
人生初めてのベンチャー企業!業務委託としてジョイン
高校の友達が創設したスタートアップのITベンチャーに入り、朝から晩まで働く毎日に。
創業時だったこともあり、経理・マニュアル作成などの事務周り全般・営業サポート・インターン生とのやりとりなど、ふられた仕事はなんでもやっていました。
ここでベンチャーの洗礼を浴びて朝9:00から夜24:00まで仕事をしていましたが、誰もやりたくない仕事がどんどんふってくるので、雑務担当みたいになっては、文句を垂れながらも我慢してやり続けましたね。
「お前は仕事ができない」「なんでこんなことでミスるの?」などの厳しい意見が相次ぎ、メンタルが壊れかけることも。
ただこの時も既に受け身スタンス。自分から改善案を出すこともありましたが、断られることがほとんどで、強くプッシュすることはしなかったです。
今考えたら責任回避的な行動だったなと思います。
当時の取締役との営業同行は車での移動が多く、その時の何気ない会話にものすごくのめり込んでいる自分がいました。自分の考えがどんどん明確になっていき自分は何をしている時が1番楽しく、周りのためになっているのかなどを考える時間が増え、「これカウンセリングやってくれてます?」と聞いたところ「コーチングに近いな。〇〇会社の社長とかもコーチングできるで」と言ってくれたことをきっかけにコーチングに対して強い関心を持ち始めました。
その人の意思を汲み取って前に進めてあげられるってすごくない?それ私もやりたい!と思い、隙があればコーチングのことを調べていました。
エネルギーが溢れ返っていたキャリアコーチング会社に副業としてジョイン
ITベンチャーで苦い思い出もあったのでそこは1年半で退職。次の仕事を自分の中で下記条件で探していました。
・コーチングを扱ってる会社
・みんなで褒めるところは褒めて指摘するところは指摘し合う
・20代が多くエネルギーが溢れている
・成果報酬型で頑張りが給料に反映される
・一人間として認めてくれる
コーチングに興味を持っていたこともあり、キャリアコーチング会社に業務委託としてジョイン。ANAでの仕事もしつつ、最初は副業でスタートしました。
人生で初めての営業。最初は戸惑うことだらけで同期たちがどんどん成約するなか、自分だけ成約が取れない日々に焦りまくっていました。心のどこかで、"みんなできてるんだから自分にもできるだろう"という謎の自信がありましたが、間違いなく慢心でしたね。
この時も同じ営業マンのことを学歴や職歴でジャッジしていました。”高卒の人でもできる”、”公務員だった人でもできる”。だったら自分にできないわけがない。という思考。
スクリプト通りに話してるのに全然成約できない!と、他責になる始末。(この時は多分他責だということにすら気づいてない)
失注が続いた時に新人教育担当の方から、「スクリプトは忘れて良いから、ありのままの齋藤愛で戦ってこい」と言われ、お客様の話を聞いて普段通りの会話をしてみたら初成約に繋がりました(しかも最高単価)。その後3連続で成約が続きめちゃくちゃ嬉しかったことは今でも覚えています。
成約率は常に上位をキープしていましたが、ジョインから半年後の9月に10成約中9件がクーリングオフ・解約に。
またもや傲慢になっていたことを会社のオーナーから1on1で見抜かれ、「お客さんのことをちゃんと見てない」と核心すぎる言葉をもらい撃沈。もう面と向かって話してられないくらいグサグサ刺されて呼吸するのすら苦しくなってましたw
初心に返って毎アポ、”お客様にとって価値のある時間にしよう”と考えて臨んだ結果、翌月売上1000万の大台に乗るという自分でも驚きの成果に!
めちゃくちゃ大きな達成感を味わいました。
「お客様の人生を良い方向に変えていくって楽しい!」と初めて強く思ったのもこの時です。
エネルギーを分け与えるのだけは得意で、ストレングスファインダーの上位6つが影響力に偏っているくらいです。(1.最上志向 2.競争性 3.活発性 4.社交性 5.コミュニケーション 6.自己確信)
私自身が信じているサービスを売っている時のPR力は強いエネルギーを放っていたなと思います。営業動画を見ると時間の経過と共にお客様の表情がどんどん変わっていき、最後は「やってみます!」とお客様自身で一歩踏み出せていました。
お客様の人生のターニングポイントを作れる瞬間は、この仕事をやっていて1番やりがいを感じられていたことです!
ただフライトと営業の二足の草鞋生活は個人的にメリハリがあって楽しかったですが、今考えると逃げ道を作っていただけな気もします。
「どちらかがダメでも、どちらかが残ってるし」という中途半端な考えはこの時既に存在していました。
ANAを3ヶ月間休職して営業にフルコミットしてみたものの一気に売上が低迷。お客様のことを考える余裕がなく、「何が正解なのか?」ばかりを求めて全く本質的ではない営業をしていました。
オフィス出社が半強制になり、毎日オフィスに行きメンバーとの交流は楽しかったですが、仕事は成果が出ず苦痛な時間になっていきました。
成約率が低いメンバーは毎朝6:30からロープレがあり、「なぜ私がここに?」と現実を受け入れられていなかったのも事実です。でも見返したいし、「ここで絶対にもう一度成果を出してから辞める!」とまた頑固になっている自分もいました。
周りからは、早く辞めなよと言われることが多かったですが、途中で投げ出したみたいになるのが嫌で、「絶対に負けない!」と毎日思いながら過ごした低迷期間でした。まあまあ頑固w
仕事をしながらデジタルノマド生活へ
ある時ふと、「フルリモート・フルフレックスの働き方がOKなら海外にいながらも仕事ができるのでは?」と思い立った私は世界中を転々とする生活に憧れ始めます。特に海外移住に強い興味が湧き日本人でも海外移住ができる国を調べ、オランダとチェコに1ヶ月ずつワーケーションをしました。幸い彼氏もPCとwifiがあれば仕事が完結する仕事をしているので、2人で初めての海外ワーケーションへ!胸が高鳴り、終始アドレナリンが出て、海外での生活がより現実になろうとしていました。一時帰国をしてからも行きたい場所に行ってリモートで仕事をしながら生活をする、本格的なデジタルノマド生活がスタート。
東南アジア→ヨーロッパ→アメリカと自由気ままに移動しながら働ける生活はめちゃくちゃ楽しく、低迷していた成約率も一気に15%以上上がり仕事の成果も出ていました。クーリングオフの対策を打ったり、成約率が一桁の人に営業のアドバイスをしたり、自分なりにできることを探して改善をしていましたが、どこか中途半端な感覚があったのは否めなかったです。ずっとノマド生活を続けて何になるんだろう?仕事はこのままでも良いのかな?など漠然とした不安が日々大きくなっていき焦りも感じていました。このまま仕事を続けるよりも、別の営業にもチャレンジしてみようと思い退職を決断したタイミングで、たまたまNYにいた会社のオーナーに会いに行くことに。「会社を辞めます!ありがとうございました!」を言おうと強い意思を持っていったにも関わらず、8時間に及ぶ魂1on1をしてもらい、気づいた時にはもう一度同じ営業で頑張ることを決断w
「自分の人生が大きく動き始めそう!」と思った瞬間で、本当に魂が揺れた感覚がしました。初めて1人の人間として認めてもらったと感じられ、この場所にいても良いんだと思えました。本当に感謝してもしきれないです。営業リーダーとしてマネジメント業務をやりたいという意思も初めて会社側に見せて日本に帰国。
営業リーダー就任から2ヶ月でKGI達成!
日本帰国後、しゃかりき働きまくりました。8:00から夜中2:00まで回ることはざらにあり、夢の中でまで営業をしていました。
営業リーダー就任から2ヶ月後、みんなで高い目標を立てたにも関わらずチームKGIと自身のKGIも同時に達成し、ものすごく嬉しかったことを覚えています。
当時は営業統括にもなりたい!と思っていたので、このまま成果を残し続けて上りつめよう!と思っていました。
気づいたらhave toまみれの状態
一度KGI達成をしたものの、その後は未達の連続。(再現性がなかった)
どうやったら成果が出るか、誰のアドバイスが1番有効か、など考えていたものの、成果が出ていないことに対する焦りで全くうまくいかず。
徐々にメンバーとも衝突が増えチーム離脱や退職する人もいました。
私自身強制されるのが大嫌いなのに、私がメンバーを強制しようとしていたので、うまくいくものもうまくいかなかったのかなと思います。
リーダーから営業マンにおろされたくないという自己中的な思いが心の奥底にあったので、いつの間にか口癖は、”〇〇しなきゃ”になっていました。
そんな時に当時お世話になっていたコーチから、「あなたがリーダーポジションにいることで本来そこにいるはずの誰かが輝く機会を失っている。あなたも本来輝く場所があるのにそこにいかずしてどうする」と言われ、その日にリーダーと営業を降りることを決断。そのまま退職の方向に進みました。
have toまみれは自分にも会社にもお客様にも何も良い影響がない。自分がwant toで生きている方が周りのことも明るくできるんだということを学びました。
挫折し、抑鬱状態に。充電期間へ
がむしゃらに働いた3年半でしたが、ここでプツンと糸が切れ、ほぼ抑鬱状態に。仕事のやる気が起きない、人に会いたくない、涙もろくなるなど、自分の体がSOSを出していることにすら気づかず、周りの人に言ってもらって初めて気づきました。
人生で初めての仕事をしない期間。石垣島や屋久島でゆっくりしたり、ヨーロッパ周遊をしてずっと行きたかったマッターホルンに行ったり。まさに人生の夏休みを過ごしていました。
最近。ようやく。英語コーチングサービスを事業化していくためにようやく動き出しています!
3ヶ月ぶりにワクワクしてる!!
元々働くことは好きなので、次も自分の進みたい領域に進み誰よりもチャレンジするコーチになっていきます!
過去の全ての経験が今に繋がっている
「自分はなんのために生まれてきたのだろう?」
と、自分が社会にできることは何かを考えることが、ここ最近増えました。
きれいに言語化できたわけではなくまだ漠然としていますが、自分と関わる人を活き活きさせるような人間(歩くパワースポット)になりたいと思っています。
彼氏には言語化の壁打ち相手になってもらったり、アドバイスをくれたりと、常々助けてもらっています。(いつもありがとう!!!!)
そう考えると過去の全ての挫折経験が今を作っているなと。
小・中・高でのいじめの記憶は今の自分を縛りつけていましたが、ネガティブ感情はポジティブな感情の裏返しであり、その経験があったから「周りを活かし、明るくする人間になりたい」という思いが生まれた。
コロナ禍では収入が激減したけど、自分の身は自分で守ろうという意思が芽生え行動に移せた。
キャリアコーチング会社では、周りよりもできない営業マンだったけど、初めて仕事にやりがいを感じられて、仕事は誰でも夢中になれると思えた。
また、have toまみれは自分を苦しめるだけということを学び、自分のwant toで生きて周りにも良い影響を与えようと思った。
自分が活き活きしてるからエネルギーを分け与えられる。
全てのことに感謝し、これからは、自分がゴール達成・更新をして誰よりもチャレンジし続けることで、周りを勇気付けられるような人間にアップデートしていきます!