走る、書く、読む
走るのはしんどい。
書くのはイライラする。
読むのは飽きる。
そういうものだと思っていて、できるだけ避けて生きてきた。
まず走ることについて。
子供の頃の私は、文字通りスポーツ少女だった。
水泳にバレーボール、新体操、器械体操、
とにかく普通の人よりもいろいろなスポーツに取り組んだ。
小学校の卒業文集では『将来オリンピック選手になっている子ランキング』で一位も取った。
それなのに走ることは極端に嫌いだった。
クラブ活動というのは、何故にそこまで走ることを課すのだろうか。
練習前のウォームアップならまだしも、練習後のクールダウン ―そもそも本来のクールダウンの目的にかなっているのか疑わしい― でも何周も体育館を走らされた。
走り始めから続く息苦しさや容赦なく飛んでくる監督の怒号。
げほげほ言いながら死ぬ気で走っているのに何でそんな風に怒鳴られなければいけないのかと、本気で監督を憎んだ。
または、体育の授業の20mシャトルラン。
回数を増える度に音程やテンポが上がり、体だけではなく精神的にも追い詰められる。
大抵私は早々にリタイアし、隅に座って生き残っている友人たちを眺めていた。
自分の記録の何倍もの回数を走り切った友人たちに拍手を送る。
自分にはできないから純粋にすごいなと感じたが、だからといって私もできるようになりたいとは思わなかった。
次に、書くことについて。
読書感想文、日記、論述問題、志望動機、企画書、ビジネスメール。
世の中には書く作業が多すぎる。
しかも大抵の場合は、「原稿用紙5枚書け」とか「筆者の気持ちを100文字以内で表せ」とか「簡潔に読みやすくまとめろ」とか注文が付いてくる。
絵の場合はそんな風に細かく指示されることはないのに、どうして文字を書くときだけこうもルールがあるのか不思議だ。
書き方を指定されると途端に書く気が失せるのに。
加えて、伝えたい内容を正しい言葉できちんと表すのは相当難しい。
細かいニュアンスや言葉そのものの持つ雰囲気に気を取られていると、いつまでたっても完成しない。適切な表現が見つからないこともしばしばあり、書くという作業自体にストレスを感じるようになる。
そして読むこと。
私の育った家庭は読書とは全くの無縁だった。
夏休みに出される読書感想文用の本以外は、年に1~2冊読むか読まないかというレベルだ。
それでも友人からこの本面白いよと聞いたり、図書館や書店でなんとなく気になって手に取ることもあった。
始めは意気揚々と読み始めるが、途中で登場人物の設定が分からなくなったり、「前述したように~」の前述部分を忘れたりして読み返すうちに集中力が切れる。
だからほとんどの本が半分も読まれないまま、まるで最初から存在しなかったかのように本棚の奥へ追いやられる。
もう一つ、読んで得られたものと読むのに感じるストレスのバランスが悪かった。
面白そうだと思って読み始めたはずなのに、ある程度読んで振り返ったときに楽しい気分になったとかロマンチックな気分になったとか、はたまた勉強になったというような収穫があまりにも少なかった。
いつしか読むこと自体が目的となり、本を読んだという事実が欲しいが為に読書をするようになった。
走ることも書くことも読むことも、すべて最近までは苦手で嫌いだった。
しかし、どういうわけかここ1~2か月くらいで苦手でも嫌いでもなくなったのだ。
この気持ちの変化の理由を考えていて気付いたことがある。
私はただ、自分に合った楽しみ方を知らなかっただけなのではないか。
例えば、走る場所は大きな公園にする。
木々を通り抜けた風や鳥の鳴き声を感じながら、心地よく自由な気持ちで走ることができる。
同じ場所を走るのに飽きたらルートを変えてもいいし、昨日よりも1メートルでも長く走れたら成功!のように、自分だけのゲームを作るのもいい。
書くときは好きなように文章を書く。
ビジネスシーンにおいてはある程度ルールに従うことも大事だが、noteやSNSではただ自分の思うままに書いてみると案外筆が進むものだ。
適切な単語が見つからなかったら、それをそのまま書く。
そっちの方が何倍も伝わりやすい。
本は全ページ読まなくてもいいことにする。
目次をちらっと見て興味のあるところだけ読んでみて、面白ければ他のページに戻って読み直せばいい。
途中で内容が分からなくなっても気にせずに読み進める。
すると意外と、そういうことだったのかと後から理解できるかもしれない。
要は、何をするにも形式やルールに捉われすぎないことが重要だ。
自分の好きなように楽しめばいい。
5/12 1,863文字