【高句麗】殷の残党【高夷・孤竹・令支】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
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こんにちは、今回は高句麗の歴史についてお話させて頂きます。宜しくお願い致します。
[三国史記]と[三国遺事]にある高句麗の王統と[魏書]高句麗伝の王統は相違があり、高句麗初期の王統は不明瞭な記録となっています。
[三国遺事]によれば扶余はのちに高句麗になったとあり、高句麗の民族は朝鮮民族を代表すると考えられています。
しかしこれは後に高句麗の子孫を自称した高句麗史家の主張なので、扶余本家の子孫が高句麗になったのかは他の古文書と比較して調べる必要があります。
では一先ず漢民族は高句麗の民族をどのように見ていたのか、を考えていきます。
[後漢書]高句麗伝は
《武帝が朝鮮を滅ぼすと高句麗を県として玄菟郡に所属させた 漢は鼓・笛・芸人を与えた》
とあります。
西暦299年に成立した[徒戒論]には
《翁源の高(句)麗は元来遼東に発見された 魏の正始年間に蔚州(うつしゅう)の呉陸遜が彼らを征服し 後に数百人を区内に移入した 現在数千に増加している〈中略〉将来紛争の原因を削除するには これ等蛮族に命じて本来の郷土に戻すべきである》
とあります。
中国の考古学者李済氏によれば、西暦299年における北部、中部、西方地区の人口の半数は支那人ではなかったといいます。
さらに数千人の匈奴が朝鮮民族と共に北東地区に見られるとあり、ツングース族によって引き起こされた北支那における紛争は4世紀の初頭に始まり約300年間続きました。
この紛争により、匈奴と朝鮮民族は北支那において優勢となり、支那人は揚子江を越えて南方へ移住することになりました。
この3世紀にわたる紛争は揚子江の北方地域に限られたものではなく、支那全土にわたって起こりました。
その結果普遍的に荒廃をきたし、人口の減少が見られた。と述べています。
高句麗の建国から滅亡に至るまでの領域は時代によって変動はありましたが、吉林省、遼寧省、内蒙東部一帯が主要舞台であり、遼寧省西部には高麗城子や高麗河が存在していました。
【高句麗と高麗】
[金史]には金王朝建国者の始祖が高麗に由来するということが書かれています。
[金史]に記されている「高麗」は中世の高麗を指すものではなく、古代の高句麗を指していると考えられます。
高麗は10世紀に王建が建国した朝鮮王朝で、新羅に続く2番目の統一王朝です。
民俗学の著作家である宇山卓栄氏によると
高句麗と高麗は同じもので「句」の字を入れる高句麗の方が古い表現であるため、古代の高麗を高句麗と表記し、中世の高麗を「高麗」と表記して一般的に使い分けていると言います。
[日本書紀]の中では高句麗は高麗になっていますが、史書の中で「高麗」と云う名称が初めて現れるのは[南斉書]の高麗国伝です。これは6世紀初期に成立したものとされていますが、後世の7世紀初期に成立した[梁書](りょうじょ)ではまた高句麗伝となっています。
高句麗を使用した書物は他にも[魏書]の高句麗伝があり、高麗を使用した書物は[隋書]や[唐書]の高麗伝があります。
[隋書]列伝契丹の条には《契丹の万家高麗に寄る》とあり、この高麗は高句麗のことをいいます。
【高句麗と高令】
[契丹古伝]には箕子朝鮮が滅びた後、その亡命者であっ辰王が卒本川の流域、紇升骨、丸都の領域を渡し、匈奴の一派、高令がやって来たとあります。(鹿島氏訳)
朝鮮半島の歴史書[東国通鑑](とうごくつがん)には《卒本扶餘の沸流水上に至り都す 国を高句麗と号す よって高を姓とす》とあることから、高句麗と高令は同じであることがわかります。
【高令とは】
では高令について調べていきます。
護雅夫氏の「古代トルコ民族史研究」によれば次のように解説しています。
トルコ民族は丁零・丁令・丁霊などの名前で、紀元前3世紀ごろに匈奴の北方に現れ、匈奴の支配下に入りました。
匈奴の国家が崩壊すると、その一部は南下して中国の北辺、西辺、さらには中国の内部へ移住し、勅勒などと呼ばれましたが、大部分は匈奴の滅亡後、内蒙古を本拠として建国した鮮卑の北方で遊牧していました。
これが高車の前身で、高車が高車丁零と呼ばれたのはそのためです。
高車は蒙古高原に建国した柔然(蠕蠕)に服属しましたが、485年の末か翌年の初めに西方へ発展して、アルタイ山脈の西南地域に独立国を建てました。
隋代の鉄勒が中心をなしたのは、この高車です。
恐らく鉄勒の一部であったと思われる突厥が柔然を滅ぼして6世紀の中頃史上最初のトルコ民族帝国を建てたとすれば、高車は丁零、勅勒と鉄勒、突厥帝国とを結びつけるものとして重要な役割を果たしたといえます。
その高車の歴史を述べたのが[魏書]及び[北史]の高車伝であると述べています。
周代には高車は自らを狄歴と称していましたが、北方民族からは勅勒と呼ばれ、中国では高車・丁零と呼ばれるようになります。
狄歴、勅勒、丁零の原音については諸説ありますが、これらは鉄勒と同じく「Türük」チュルクを漢訳したものではないかと言われています。
チュルク系民族は現在バルカン半島、クリミアから新疆ウイグル自治区まで広がり、この人々が満州地域に入ったのは紀元前3世紀以降であるとされています。
なおチュルク諸語が古代日本に突如現れた八母音のルーツになります。
つまり高令という名称は[漢書地理史]に見える、高夷、孤竹、令支の総称または省略であり、後の高車丁零のことです。
中国側の史料では高令については紀元前4世紀より前の記録はありませんが、通常この民族はトルコ族であるとされており、この民族がいつどこから移動してきたのか考えることが必要です。
【高車とは】
次に高車について調べていきます。
[魏書]高車伝には次のようにあります。
高車全体を支配する大師はおらず、それぞれの種族に君長がいる。
性質は粗猛で同じ仲間が心を一つにし、もし外敵の侵略にあうと、集まって一致合同し助け合う。
戦闘の際には整然たる隊列を布かず、各人が別々に敵と衝突して突進するかと思えば、たちまち退却し、そのため堅固な戦いを展開できない。
高車の風俗では膝を立てて腰をおろし、目上の者に馴れ馴れしく振る舞ってけがすのを忌み嫌わない。
婚姻に当たっては牛馬を結納として贈り、それを富のしるしとする。
結婚の約束がとりかわされてしまうと、夫の親戚は車を並べめぐらして馬群をかこみ、その中の馬を妻の親戚に自由に取らせる。
そこで妻側の者は囲いに入って馬に乗り鞍を用いずに騎乗して囲いから出る。
夫側の馬の持主は囲いの外に立ち、手を振って馬をおびえ驚かせる。
その際落馬せぬ者はすぐさまその馬を取り、落馬したら交替して取る。
このようにして馬を全部取り終わったらそこで止める。
彼等の間には穀物がなく、それで酒を醸造しない。妻を迎える日になると、男も女もあいたずさえて、馬の凝乳、蒸肉、骨節の節々を分解したものを妻の家へ持っていく。
主人は客を招き迎えるが、この時にもまた整然たる隊列、順序は存在せず、テントの前に群がり座って一日中酒盛りをした上に、そこで一晩泊まり翌日に妻を連れて帰る。
その後夫の親戚を連れてまた戻って妻の家の馬群の中へ入り良馬を取り尽くす。
父母兄弟は惜しがっても、最後までとやかく言う者はない。
寡婦をめとるのを非常に忌みはばかるけれども、彼女らをあつく憐れむ。
高車の家畜にはおのずとしるしがあって、野外に自由に放っておいてもそれらをみだりに取るものは決していない。
風俗は清潔ではない。
雷鳴がおこるのを喜び、雷が落ちるたびごとに、大声で叫んで天に向かい矢を射て、その地を後にしてそこから移り去る。
翌年の秋になって馬が肥えると、再びあいたずさえ戻って来て雷の落ちた場所を探り、そこへ黒い牡羊を埋め、火を燃やして刀を抜く。
女巫(シャーマン)が唱える祝詞は丁度中国のお祓いに似ている。
そして多くの者が隊をなして馬を走らせ、その周囲をまわり百回まわるとそこで止める。
人々は人束の柳、桋(めぐわ)を持ってまわりにこれを立て、それらに乳酪を注ぐ。
婦人は皮で羊の骸骨をつつんでこれを頭上にいただき、頭髪を絡ませまげて、これを結びつける。その様子には中国の高位高官の者に似たところがある。
とあります。
【麗と驪】
高句麗の「麗」を中国の史書ではしばしば「驪」(り)と記しています。
中国陝西省にある秦嶺山脈の山を驪山(りざん)と言いますが、この地には元々、驪戎(りじゅう)という国がありました。
驪はまた萊夷の「萊」と古音相通であり
「驪」と「令」は叶音の関係があります。
つまり、陝西にいた驪戎と、山東にいた萊夷、直隷の令支は、驪、萊、令の同一通称をもつ古民族であることがわかります。
これらの種族が東族であって、直隷の古族である令支は元々高夷と同じで、この族の自称が高令であったと考えられます。
[契丹古伝]では度々「高令」という民族が出できますが、高令は後世になると中国側の史料では高夷、孤竹、令支とされ、高令は3つの民族に分かれています。
3つの民族を創作した理由としては、諸説ありますが、中国の王制がひろく繁栄したことを主張するためなどと言われています。
【契丹古伝38章】
次に[契丹古伝]の38章を見ていきます。
《これより先 匈奴に2部族あった 即ちシウイツ氏とシウ刀慢(とま)氏である イツ氏は殷のミコ王の孫が入って継いだものである 濊族と伯族のうち匈奴に合した人々はよく考量したのちこれを宗とした しかしその後衰退し ミコ王の子孫はしばしば刀慢氏に養われた ミコ王の子孫の冒頓は幼にして異相を嫌われ大月氏に質としたのち急襲された
冒頓は走り逃れ迂回して殷に助けを求めた 殷はよく外部と相談し伯族は密かに匈奴内部から内通した その結果冒頓は匈奴に入って単于(ぜんう)となり漢軍を包囲して高祖をとりこにし 反転して匈奴と殷の間の諸族を追い払った そこで殷は安泰になった 漢が賄賂を使って冒頓を殺させたので 伯族は再び衰え久しく辺境にひそんでしまった ここに至り辰王はソホフルの谿 クシト ウアントの領域を提供し 高令族がそこに至る》
とあります。
ここでは匈奴の族長として有名な冒頓単于がシウカラ出身であることと、匈奴はシウイツ氏とシウ刀慢氏の二族からなっていることがわかります。
そして全モンゴルを統一させた冒頓単于の死後、彼等の勢力は弱まり、ついに砂漠地帯に逃れたとされています。
それでも依然として漢と拮抗していた辰国は高令族に土地を提供し、卒本扶余として建国させます。
[契丹古伝]では高令とは殷の残党である庶殷であり、これが中国側の云う高夷、孤竹、令支のことです。
殷人はのちに箕子朝鮮を建てたので、高令は箕子朝鮮の主流ということになります。
次に[契丹古伝]第37章を見ていきます。
《思うに辰は古国である 伝に曰く「神祖のあとにシウムス氏がありそれは元来東表のアシムス氏と同一だった シウムス氏に子があり兄の後裔がコマシウ氏となり弟の後裔がカラシウ氏となった 干霊(から又はうる)分かれて干来(から又はうら)となり二千海を隔てて相対している 干来(から又はうら)は分かれて高令となった」という しかし今日では真偽不明である この人々のうち最も名のある者はアメシウ氏である もとは東表のムス氏から出て殷と姻籍関係にあった
国をヒミシウ氏に譲った ヒミ氏が自立して間もなく漢の来寇が迫りサワタに入ったこれを撃退した ワイ氏と領地を嶺東につらね辰を守るための城郭となった ハンヤもまた兵をアフロに展開し漢の軍を牽制した》
とあります。
浜名寛祐氏は「高令」は元来「カラ」と読み山東にいた東萊のことである、としています。
麗と驪と「萊」の古音相通と、「驪」と「令」が叶音の関係にあることからも高令を東萊のこととするのは筋が通っているといえます。
神祖のシウムス氏の子で弟の後裔がカラシウ氏となり、さらに分かれて高令となった、とありました。
紀元前13世紀頃に山東半島に上陸して干来の地をたてたのはイシン王朝の下で水軍をしていた人々で、彼らが古代植民都市を築いていたのが大邑商であり先住民と融合して殷文化となった、というお話を以前しましたが、ここにいたのが高令ということになります。
高句麗の始祖朱蒙は自らを、天帝の子であり河伯の孫である。といい、魚とスッポンに橋を作らせて渡った、という神話のルーツは、マレー半島にある神話の、ソロモンの命を受けたといって鹿がワニに橋を作らせて渡ったという説話が原作なので、やはり高句麗の王族の出自は南海族ではないかと推測できます。
そうするとこの王族というのはイシン王朝の王族だったのではないかと考えられます。
色々とややこしい話をしてきましたが、高句麗族はいにしえの高令であり、高令は殷の庶殷であり、これが中国側の云う高夷、孤竹、令支のことです。
さらに詳しい内容は下記の参考書籍を読んでみてください、最後までご覧いただきありがとうございました。
📖参考書籍📖
金富軾/林英樹訳「三国史記」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
護雅夫著書「古代トルコ民族史研究」
申采浩著書/矢部敦子訳 「朝鮮上古史」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
鹿島曻著書「倭人興亡史」「史記解」「日本ユダヤ王朝の謎」
宇山卓栄著書「民族と文明で読み解く大アジア史」
本田済編訳「中国古典文学大系漢書・後漢書・三国志列伝選」
ミスペディア編集部「面白いほどよくわかる朝鮮神話」
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