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【日ユ同祖論ユダ族編】秦氏は秦始皇帝の孫ウツ一族

※この文章はYouTubeで視聴することも出来ます。


こんにちは、今回は日ユ同祖論についてお話させて頂きます、宜しくお願い致します。

日本とユダヤの関係は、皆さんご存知の通り切っても切れない関係にあります。ユダヤの民族は様々な形で日本列島まで辿り着いていますが、今回は秦氏経由の日ユ同祖論について見ていきます。

先ずは古代の有力な帰化氏族、秦氏の正体から探っていきます。
秦氏は秦始皇帝の末裔ではないかと言われていますが、厳密に言えば秦始皇帝の孫である有秩(うつ)一族の末裔だと考えられます。
有秩の父親は秦始皇帝の長男である扶蘇(ふそ)です。朝廷から賜った太秦(うづまさ)のうづは有秩のことだと考えられます。太い秦[うつはた]と書いて[うづまさ]と読むのは倭訓読みです。
中国の歴史書「史記」では秦始皇帝の長男扶蘇(ふそ)は自害したことになっていますが、ある人物を頼って朝鮮半島へ亡命しています。
朝鮮半島にいた秦の末裔については後ほど見ていきます。

日本書紀には秦氏は応神天皇14年、百済より百二十県の人を率いて帰化した、とあります。
この時に秦始皇帝の子孫だと伝承をもつ弓月君(ゆづきのきみ)が祖神だと主張しています。
これは秦氏自らが権威を高めるために秦の名を借りた、などと言われていますが、そもそも秦氏と朝廷との間に[秦始皇帝=地位が高い]という共通認識が無ければ成立しません。
襲津彦を派遣し日本への渡来を手引きしたのは、朝廷が秦始皇帝について全くの無知ではなかったと推測できます。
このことから太秦より前の時代にも
秦国の民が日本列島へ入って来ている可能性があります。
その中の1人が応神天皇だったのではないかとも言われています。
応神天皇は渡来人を用いて国家を発展させたことで有名です。
応神 16年には儒教が日本に入って来たとあります。
秦王と応神天皇の関係について研究をしていたのが藤間正大(とうませいた)氏や鹿島曻氏です。
両者は応神天皇は百済王久爾辛(くにしん)と深い関係があったと研究されていますが真相はわかりません。
詳しい情報は両者の書籍を読んでみて下さい。

では秦氏のご先祖とされる秦始皇帝はユダヤとどのように結びつくのか、時代を遡って秦国から見ていきます。
秦国という国は紀元前905年建国とされています。
秦始皇帝は秦国6代目の王です。中華統一を果たした初代の帝王ということで始皇帝とされています。
では始皇帝時代の秦国とはいったいどのような国家だったのでしょうか。
三上次男氏は紀元前3世紀後半の秦の始皇帝の支配方法が、ペルシャアケメネス朝の支配方法と似ていることから.始皇帝のルーツはペルシャではないかと研究されています。
この研究を引用して鹿島曻氏は、秦が中華統一の後、置郡制度を敷いたことがペルシャのサトラップ制度と一致しており、
史記の「秦本紀」には「始皇帝が天下を分けて三十六郡とし、郡ごとに守・尉・監を置いた」とあります。

サトラップ制度とは、アケメネス朝ペルシヤ帝国の最盛期ダレイオス1世が確立した行政官制度のことです。
領土をいくつかの州 (サトラピ) に分け,その長官に軍事、行政、徴税、監視官を置くことでそれぞれ独立した権限をもって中央に直属させました。
この制度は属州の支配力分散の役割もありましたがサトラップの権限は強大であり、世襲化も進みました。
この制度はアケメネス朝以降にも東洋で長く継承されることになります。
秦国は中華統一後このサトラップ制度を採用したり、ダレイオス1世が狩猟のため設けた苑囿(えんゆう)を模倣して阿呆宮(あほうぐう)を建設したことも、共通点として挙げています。
秦に大を付けて大秦と呼ばれた国は、後漢書などの記述から東ローマのことだと言われていますが、
「仏祖統紀」の注釈には
「波斯国(はしこく)は西海に在り、此に大秦と云う、」とあります。

波斯国(はしこく)とはペルシア、イランの旧称なので、元々大秦はペルシヤ帝国を指していたことがわかります。
仏典は歴史偽造の被害が少ない書物なので、東ローマよりペルシヤ帝国の方が可能性が高いと思います。
さらにペルシャ帝国の中でもそこからクーデターを起こし紀元前256年独立したグレコ・バクトリア王国のことを大秦と呼んでいます。
大秦(グレコ・バクトリア)の建国者はバクトリア地域のサトラップ(総督)の地位にいた
ギリシア人ディオドトスという人物で、グレコ・バクトリアはギリシャ人のバクトリアという意味です。

那先比丘経(なせんびくきょう)という書物にも大秦国について書かれています。
この書物は紀元前2世紀頃、インドの西北を支配していたギリシャ人メナンドロス王と仏僧のナーガセーナ(那先)が仏教教理に関する問答を重ねた時の書物です。
「今北方大秦国に在り、国を舎竭(しゃけつ)と名づく」
「王(彌蘭)曰く、我れもと大秦国に生まる。
国を阿茘散(あらさん)と名づく」

「大秦は前に在り撥羅(はつら)は後に在り、安息は中央に在り」とあります。

インド西北を支配していたギリシャ人メナンドロス王は大秦国グレコ・バクトリアで産まれたとあります。
これは大秦を前として、中央に安息、つまりパルティア王国があり、後に撥羅(はつら)としていることからも大秦国の位置はグレコ・バクトリア王国だと推測出来ます。
大秦からインドに入ったのがメナンドロス王であり、中華に入ったのがディオドトス王であったことがわかりました。

中国史ではしばしば本国と分国があるときには、本国の方に[大]を付けていますが、この論法を当てはめると中国大陸の秦は大秦国の分国、植民市ということになります。
年代で見るとグレコ・バクトリアの建国が紀元前256年、秦始皇帝の即位が紀元前247年です。

では大秦国とユダヤの関係について見ていきます。
アケメネス朝ペルシア帝国は紀元前539年ペルシヤ王キュロス2世が新バビロニアを滅ぼし、「民族解放令」によって南ユダ王国の捕虜とされていた、ユダヤ民族を解放しました。
イスラエルはペルシヤ帝国の一部となり、ユダヤ民族は帰還を許され神殿を再建していますが、実際には半数以上がバビロニアに残留していたと言われています。

イスラエルは紀元前332年アレクサンドロス3世が征服し、ギリシアによる支配が始まります。
この時に多くのユダヤ人がギリシャに移住したことはヨハネ伝にも残されています。
その後アレクサンドロス3世の東征によってバクトリアまで入り、セレウコス朝シリアの一部となっても従軍ギリシア人とユダヤ民族の一部はバクトリアに住み続けました。
紀元前256年にサトラップ(総督)の地位にいたギリシア人ディオドトスが反乱を起こしグレコ・バクトリア王国を建国します、これが大秦国です。
中華の秦国はこの分国のため、ユダヤ民族がいてもおかしくはありません。

では別の視点からも秦とユダヤについて見ていきます。
呂不韋という人物は、秦始皇帝の父(といわれている)荘襄王(そうじょうおう)を王位につけるように尽力した人物です。
一方で彼は始皇帝の実父とする説もあります。
史記によると呂不韋は河南省の大商人で、妊娠していた妻を荘襄王に譲り、後に生まれた子が秦始皇帝となったと書かれています。

呂不韋のもとで呂氏春秋編纂の作業を手伝っていたのが儒家の人々です。
儒家は古代中国の思想集団だと言われていますが儒はジュウでユダ民族のことです。

儒教における伝統的な徳目の一つに孝という徳目がありますが、ユダヤ教においても孝愛は貴ばれ、モーセの十戒の中にも見ることができます。

この他にも儒教とユダヤの共通点については様々な研究がされていますので参考書籍をご覧下さい。

明治時代の歴史学者津田左右吉(つだそうきち)氏は、儒教のルーツがギリシャ哲学であることを指摘しています。

儒教とはギリシャ、バクトリアを経由しユダヤ民族が持ち込んだ思想なのかもしれません。

史記では紀元前249年始皇帝が呂不韋を宰相にした後処分し、紀元前212年坑儒を行なったとしています。

坑儒では一部の儒者を生き埋めにしていますが、儒者の中には易占の専門家としてその後も始皇帝に仕えている者もいます。
ある一定のユダヤ民族を迫害し彼らの歴史書を燃やすといった焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)が行われたと考えられます。
この時に呂氏春秋は残していることから、始皇帝や呂不韋とは別のユダヤ民族の歴史を焼いたのかもしれません。
始皇帝はおそらくユダ族のユダヤ人ですが、他の支族も中国大陸にいたことが確認できます。

ここからは川瀬勇氏の研究、書籍を引用させて頂きます。
イスラエルのテルアビブ北部にある、ハーレツ川博物館には中国の開封(かいほう)付近やその他の中国において、ユダヤ人達が集団で住んでいた証拠物を展示している部屋があります。
この博物館のパンフレットの著者はDr.J.Preuss(プロイス)という人物です。
彼はドイツ生まれのユダヤ人の医者で、ナチスを恐れてドイツから上海に移住し、蒋介石一家の医師として遇せられ、中国が共産主義社会になってからは、ニューヨークに逃れ1958年に没しています。
彼は中国におけるユダヤ人問題に興味を惹かれ研究し、その研究結果を博物館に展示していますので、その内容の大略をご紹介します。

まずイスラエルは今から3千年くらい昔のソロモン時代にインド方面まで艦隊を派遣しています。
宝物や珍しいものを集めさせていますが、アラビア半島の先端にあるイエーメンのユダヤ人達はその時に住み着いた民族だといいます。
その時代にすでに少数のユダヤ人達は中国に来ていたといいます。
紀元前数百年の昔に、ユダヤ人達の捕虜がアッシリア、今のイランに連れ去られた後に、いわゆるシルクロードを通じて中国とユダヤの交易が多く始まっており、周時代にはすでに北京や開封にユダヤ人が行き来していたといいます。
というのは河南省からヘブライ語の石碑が発見され、その石碑は紀元前206年~211年の間に建設されたといいます。
古代のキャラバンが使用していた道路わきから発見され、道路標識に相当するような石碑であることからユダヤ人の往来は多かったとみています。

また、西暦718年の始めに、ホータン王国のダンダン・ウィリクという場所で見つかったヘブライ文字で書かれた商業返信文からも、その頃にはユダヤ人達がキャラバンを組んで中国と交易をしていたことが明らかだといいます。
スペイン人のアンダルーシアのソリマンという人物は、西暦875年から900年にかけて中国を旅行し、古代中国の大都市にユダヤ人の社会が出来ていたと報告しています。

この小冊子のパンフレットでは、西暦1489年に開封で発見された石碑から宋の時代には70のユダヤ人部族が住んでいたことを明らかにし、1512年発見された石碑からは、周時代すでに中国にユダヤ人が居住していたと述べ、3世紀には時のペルシャ王の人種的迫害によって、ユダヤ人はイランから追放され、中国にまで逃れて来たと記されています。
開封には数千人以上のユダヤ人が居住しており、立派なシナゴーグ(ユダヤ教会)も建てられ、建物の前面には日本の神社にあるような獅子の石像が安置されていたといいます。
そこにあったシナゴーグのトーラ(教示巻物)の一部はアメリカのオハイオ州シンシナティのヘブライ大学に保管してあるそうです。
当時ユダヤ人達の間からは、地方長官や政府の高官の地位についたものや、
裁判官、医者、文学者も輩出したと書いてあります。
ところが西暦1704年の調査によればユダヤ系住民は次の7姓のみとなっており、人口は約1000人であったといいます。
7姓とはChao,Chin,Kao,Chang,Shin,Li,Ai,だそうです。

ここまでが川瀬勇氏の書籍にあった博物館のパンフレットの大略です。
このパンフレットの現物は入手することが出来なかったのですが、内容は事実なのでしょうか?情報をお持ちの方がいらっしゃいましたら教えて下さい。
ここからはWikipedia情報で申し訳ないのですが
※ 引用文献The Jewish-Chinese Nexus: A Meeting of Civilizations
明代(1368年-1644年)、ユダヤ人は皇帝から
艾(がい)石、高、金、李、張(ちょう)、趙(ちょう)の7つの姓を授けられられたとあります。
これらの姓は本来のユダヤ人の氏族
Ezra(エズラ), Shimon(シモン), Cohen(コーエン),Gilbert(ギルバート), Levy(レビ), Joshua(ジョシュア),Jonathan(ジョナサン) をそれぞれ中国風にしたものであると記されています。
これらの姓の内の2つ、石と金は西欧のユダヤ人の姓に多く見られる
Stone (Stein) やGold と一致しています。

明代のユダヤ人の姓、趙(ちょう)は秦始皇帝の姓と同じです。

では次に秦始皇帝が行った儀式からユダヤとの繋がりを見ていきます。
史記には「中国の天子は天下を統一すると、封禅(ほうぜん)という儀式を行った。」とあります。

「封禅書」には、太古には天命を受けた帝王で封禅をしなかった帝王はいない、瑞祥(ずいしょう)が現れたのを見ながら泰山(たいざん)に出掛けない帝王はいなかった。古書に見える言葉にも「3年のあいだ礼を行わねば礼は必ず荒廃する。3年のあいだ楽を奏さねば、楽は必ず崩壊する」という。世が衰えるとともに、たち消えになってしまい封禅の祭儀は滅びてしまった。その詳細はそれを知る人について聞く機会を得ようもない次第である。
と記されています。
※ 瑞祥=めでたいことが起こるという前兆。

「尚書(しょうしょ)」や「周官」を見ると、祭祀を行う宮殿を「泮宮(はんきゅう)」と呼んでいることがわかります。

春には豊年を祈り氷の解ける祭りを行い、秋には氷の張る祭りをして冬には神への感謝の祭りをします。その生贄は牛と子牛を一頭づつ用いるとしたり、春と夏には赤馬を、秋と冬には黒いたてがみの赤馬を生贄に用いるともあります。
始皇帝が行った封禅の儀式はバアル信仰と繋がることがわかるのですが、この信仰はユダヤ教とも密接に繋がっています。
日本では皇極元年(642年)、六月、旱魃(かんばつ)のため村々では牛馬を犠牲にして神を祭った。とあります。

ここまででは
秦始皇帝とユダヤの繋がりについてアケメネス朝ペルシヤのサトラップ行政官制度や大秦国、儒教、祭祀などの視点から見ていきました。
秦とユダヤとの関係がわかったところで、ここからは中国大陸から朝鮮半島へ移動したユダヤ人について見ていきます。

史記の[南越列伝]には、始皇帝と呂不韋の子孫と思われる人物が登場しています。

最高位の官吏である丞相(じょうしょう)という地位についていた呂嘉(りょか)一族に関する記述です。
「呂嘉は蒼梧の王と代々婚姻関係を持っており、呂嘉の国内における権威は非常に重く、民心を得ている点では王より勝っていた。
王と太后は呂嘉が先手を打って変事を起こすのではないかと恐れていたので、酒宴を開いて漢の使者の権勢を頼みに呂嘉を誅殺しようと謀った。
呂嘉はいつもと様子が違うことから直ちに退出すると、太后は矛で呂嘉を突き刺そうとしたが王に止められた。
呂嘉は弟の兵卒の一部を護衛にして家に帰り、
後日、王と太后、漢の使者を攻め殺した。
使者を派遣して蒼梧の秦王、及びその諸郡県に通告した。」
とあります。
ここから漢軍と南越軍の争いが始まり、呂嘉は捕らえられます。

この時呂嘉一族と代々婚姻関係を持っていた蒼梧の王、趙光は漢軍がやってきたと聞くと南越の県令定と共に自ら吏民をまとめて漢に服属した、とあります。

ここで注目したいのが、南越王と蒼梧王がともに始皇帝と同じ[趙]の姓であるということです。
呂嘉は蒼梧郡の秦王と婚姻関係があること、呂嘉は呂不韋と同姓であることなどからも始皇帝と呂不韋親子説の可能性が高くなるのですが、
元来、南越の王姓自体[趙]であって、趙は秦王の王姓なので南越王は秦王家の一族だったことがわかります。

南越列伝には、呂嘉が漢軍に敗れた時
数百人とともに海上に逃亡したが、漢軍の追手に捕らえられた。とあります。
しかし全ての人を捕らえた訳ではなく一部はさらに漢の追跡が及ばない地へ逃亡したことが考えられます。
この時代漢の軍勢から逃れるには海路で逃亡するのではないでしょうか。
南越国が滅亡して海路で逃げたと考えられる紀元前111年、この頃の朝鮮半島の様子を見てみます。
契丹古伝第18章にはこのようにあります。
「初め五原に先住の民あり。没皮(ぼつひ)・龍革(りゅうかく)は北原で牧畜し、魚目(ぎょぼく)・姑腹(こふく)は西原に穴居し、
能耳(のうじ)・黄眉(おうび)は中原に住み、
苗族(びょうぞく)・丞馮(もうば)は南原に農耕し、
兎首(としゅ)狼裾(ろうきょ)は海原で漁猟していた…云々」
とあります。
この中で南原で農耕をしていたという
丞馮(もうぼ)は蒼梧郡の孟陵(広西省)と馮乗(ばじょう)という地に居た農民のことです。
つまり朝鮮半島南部に先住民として農耕していた丞馮は、かつて蒼梧にいた秦王の人民だということになります。
また、同じ南原にいた苗族も一説には南越にいたと考えられていることから、丞馮と何らかの関係があると推測出来ます。

時代は進み、第33章を見ると
「秦は忽諸(こっしょ)として祀らず。夫胥(ふそ)の子有秩(うつ)、その衆を率いて來歸(らいき)す。
殷これを白提奚(はたき)に舎(お)き、都岐越(つきえ)となす。」
とあります。

秦は忽諸(こっしょ)として祀らず、つまり秦は滅んだという意味です。
夫胥(ふそ)というのは始皇帝の長男、扶蘇(ふそ)のことで、その子供のウツを白提奚(はたき)においたとあります。
白提奚(はたき)という地名は前漢地理志には提奚(たき)とあり楽浪郡中の一県とあります。
楽浪郡とは現在の平壌のことで、都岐越(つきえ)とは国王に次ぐ上方のことです。(浜名解)
史記では秦始皇帝が没した後、始皇帝の長男扶蘇は自害したとありますが、殷を頼って亡命しています。
扶蘇の子供有秩の一族を、殷は楽浪郡提奚(平壌)において副王とした。とあります。
動画の最初にもお話しましたが、この扶蘇の子供有秩一族の末裔は日本列島に来ています。

白提奚のハタは秦氏のハタでもあり、太秦のウズは有秩のことです。
契丹古伝33章でいう殷とは箕子朝鮮のことです。
※殷はシウ殷やサカ殷など色々とありますが割愛

続けて第34章も見ていきます。
燕(えん)の亡命者、満は漢に説いて言った。
「殷は秦の亡命者をかくまっている。私はこれを滅して漢の郡を置きたい」
漢は喜んで軍兵を与えた。
満は急襲して殷の領土を奪い、漢は蒼海郡をおいてサカ殷を阻止した。
殷王は辰に亡命し秦族はこれに従って逃れ、殷国は滅びた。
とあります。
※燕は紀元前222年秦によって滅ぼされている

この章では秦の一族は殷王家(箕子朝鮮)と共に半島南部の辰(秦)韓に亡命したとあり、楽浪郡から半島南部まで南下せざるを得なかった経緯について書かれています。
この時宮下文書では殷王は対馬にも逃れた、と書いています、そして殷王が対馬に到着した時のことを日本側から口伝で伝承していたのが出雲口伝の富家です。

この殷王家の渡来は山口県の綾羅木郷遺跡や鳥取県の青谷上寺遺跡から殷笛が出土したのと関係があるのかもしれません。

長くなりましたが、日ユ同祖論を秦氏の切り口から見ていきました。
百済から帰化したとされる秦氏とは、
秦始皇帝の孫であるウツ一族の末裔なのではないかというお話から、
朝鮮半島での秦国の末裔は、楽浪郡から辰韓へ殷王家と共に南下したことなどを古書から読み解いてきました。
さらに中国大陸での秦国は大秦国(グレコバクトリア)の分国だったというところから、
ギリシャと大秦国、ユダヤ民族の関係性を見ていきました。
秦始皇帝はユダヤ支族の中でも南ユダ王国にいたユダ族だったのではないか…というお話でした。

秦氏以外にもユダヤ民族は日本列島に到着していますし、ユダヤになる前のバアル信仰の状態で日本に持ち込んだ民族もいます。
これらの民族は日本列島にいた一部の民族の話であり、日本人全体の話ではありません。

古代史は膨大な学説があるので、今回の動画はそのうちの一つだと思って頂いてぜひ皆さんも調べて見てください。

今回参考にした書籍もぜひ読んでみて下さい。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。

📖この動画の参考書籍📖
鹿島曻著書「秦始皇帝とユダヤ人」「倭人興亡史」「倭と日本建国史」
吾郷清彦他17名著書「神道理論大系」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」
「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
藤間生大著書「日本古代國家」
長浜浩明著書「韓国人は何処から来たか」
黒板勝美著書「国史大系 日本後紀」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
家永三郎著書「日本書紀」
筑摩書房「古代オリエント集」
岩間尹著書「開闢神代暦代記」
斎木雲州著書「出雲と蘇我王国」
富士林雅樹著書「出雲王朝とヤマト政権」
浜名寛祐著書「契丹古伝」
浜田秀雄著書「契丹秘伝と瀬戸内の邪馬台国」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
佐川英治・岸本美緒著書「ビジュアル大図鑑 中国の歴史」
大牟田章著書「アレクサンドロス大王」

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