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【イエスは仏教徒だったのか】復活劇の原作【釈迦とイエスのカースト改革】〜古書から日本の歴史を学ぶ〜

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こんにちは、今回はイエス復活の秘儀について、お話しさせていただきます、よろしくお願い致します。

イエスキリストが十字架にはりつけにされ、3日後に復活したという奇蹟の話は有名ですが、近年では3日間気絶説など、面白い考察が増えています。

このイエスの復活とは実は仏教の秘経が書かれた書物であるインドの「ミリンダパンハー」に記されている通り、死者が墓地から奇蹟を起こすことによって教義が拡大する、という原始仏教の秘儀であり、この法則に則った儀式をイエスは行ったのです。

「ミリンダパンハー」とは、紀元前2世紀にインド西北部を支配したギリシャ人メナンドロス王1世が仏教の僧、ナーガセーナという僧侶と仏教教理について問答を交わした時の記録です。メナンドロス王1世はこの問答の後仏教の信者になったと云われています。

ナーガセーナのナーガとはサンスクリット語で蛇や竜を意味し、セーナは軍隊を意味しています。

「ミリンダパンハー」は「ミランダ王の問い」と呼ばれたり漢語では

那先比丘経(なせんびくきょう)として翻訳されています。

この記録の中に仏教の秘経であった復活と正法について書かれています。

ナーガセーナは「阿羅漢が世の人を憐れみ、この墓に奇蹟が現れよ、と命じたために復活の奇跡が起きた。この奇跡によって常に正法が信仰されることになるであろう」と答えています。

※ 阿羅漢=尊敬を受けるに値する者

では、イエスより前にお墓で奇蹟を起こした人物は誰でしょうか。

その人物はイエスが生まれるよりも500年以上前に誕生し、ヴェーダ教の改革的な教えを説いた釈迦です。

ディーガ・ニャーヤという経典の第16、マハー・パリニッパーナスッタンタや「長阿含経」(じょうあごんきょう)によれば

釈迦が息を引き取ったその時「大地震」が起こり、天の太鼓が鳴り渡った、諸天、世人、皆大いに驚愕し、もろもろのあらゆる霊冥、日月の光明の照らざるところも、みな大明をこうむり、おのおの相見ることを得、互いに相言って言わく。「彼の人はここに生まれ、彼の人はここに生きる」

昇天していた釈迦の母、摩耶が天上から舞い降りて悲しみの詩を歌った、釈迦の弟子達も遅れて到着し、棺の中から黄金色の釈迦の両足が現れた。とあります。

後世の書物である「摩訶摩耶経」(まかまやきょう)ではさらに話が壮大になり

棺の蓋が自然に開いて釈迦がその姿を現し、母、摩耶と愛弟子の2人を前にして、最後の説法をした、などと書かれています。

このようにイエス復活の奇蹟の原型が仏教の秘儀や経典に書かれています。

この他にも南方仏教最古の経典である「スッタニパータ」には信仰は種である。という特徴的な言い回しが何度も登場しますが、これも聖書や福音書でイエスが教えを説いた時の言葉として再三登場しています。

仏教とキリスト教の共通性についてはアメリカやヨーロッパの学者からも長年指摘されていることすが、「仏教とキリスト教」という書物を書いた堀堅士氏は、

キリストの母「マリア」は釈迦の母「マヤ」の名であり、イエスに洗礼を授けた「ヨハネ」はイタリア語では「ジョヴァンニ」というので、釈迦の父、浄飯王(じょうぼんおう)のジョバンのことであると主張しています。

※ イエスの弟子「ヨハネ」とは同名の別人

イエスの湖を渡る奇跡、病気治療の奇跡、食べ物を増やす奇跡などは全て仏教の経典に書かれています。

イエスは仏教の教義を知り、自らを釈迦になぞらえて演出をしたのでしょうか。「イエスの奇跡」はキリスト教徒の間では有名な話だと思いますが

湖を渡る奇跡についてマタイによる福音書を抜粋すると、

マタイ一四—27「イエスが「しっかりするのだ、私だ、恐れることはない」と彼らに声をかけられた。するとペテロが「主よ、あなたでしたか、では私に命じて水の上を渡して、身元に行かせてください」と願った。イエスが「おいでなさい」と言ったので、ペテロは船から降り、水の上を歩いてイエスのいる方へ行った。しかし途中で風を見て恐ろしくなり、溺れかけた。ペテロは「主よ、お助けください」と叫んだ。イエスはすぐ手を伸ばして彼をつかまえて言われた「信仰のうすい者よ、なぜ疑ったのか」イエスとペテロが船に乗り込むと風は止んでしまった。」というお話です。

ヨハネの黙示録やマルコによる福音書には、イエスが湖の上を歩いて来られるのを見て、弟子たちは幽霊だと思い、大声で叫んだ。しかしイエスは「しっかりするのだ。私だ、恐ることはない」と彼らに声をかけ、弟子たちの船に乗り込まれた。とあります。

ではこの原作である「ヴィナヤ・ピタカ」のカンダカ・マハーヴァッカに属する説話を見ていきます

「ある時、大雨が降って大洪水が起きた、釈迦はその洪水を四方に退け、その中で乾いた土地の上を静かに歩んでいた。釈迦を助けようとして船でやって来た弟子たちは、これを見て大いに驚いた。マハーカッサパが「師よ、あなたは、ここにおられるのですか」と呼びかけると、釈迦は「カッサパよ、私はここにいるのです」と答えて虚空に飛び上がり、弟子たちの船に乗り込んだ。という説話です。

もう一つ「クッダカ・ニカーヤ」の前世物語にもこのようにあります。

「ある日、一人の信者が釈迦の説教を聞こうとして祇園精舎へ向かう途中で、アティラバティー河の岸辺に到着したが、船はもう行ってしまった。そこで信者は仏陀に対する信仰心を奮いおこして河を渡り始めた。するとまるで陸上を歩くように彼の足は水に沈まなかった。河の中ほどまで来た時、彼は波を見て恐ろしくなり、溺れかけたが、再び仏陀に対する信仰心を強めて、遂に対岸にたどり着いた。

祇園精舎に到着した信者からこの話を聞いた釈迦は言います、「前世においても、暴風のために船が難破しそうになった時、仏陀に対する信仰心によって、信者たちは遭難をまぬがれたことがあったのだ」

という物語です。

イエスの奇蹟と似ていると思いませんか。

食べ物を増やす奇跡は、マルコ・マタイ・ルカ・ヨハネの書物に記載がありますが、簡単に要約すると、

人里離れたところで、イエスは5つのパンと2匹の魚を天に仰いで祝福し、男5000人に分け与え、食べた者は皆満腹になった。という奇蹟です。

この原作を探すと、釈迦の「鉄鉢の奇蹟」という説話があります。

このお話は、人里離れた荒野の中で、釈迦が鉄鉢に奇蹟を起こし、1250人の餓えた男たちに、十分な食べ物を与えたという説話です

病気治療の奇跡については、特にたくさんの奇蹟をイエスが起こしたと弟子たちは書き残しています。

生まれつき盲目の人の目を見えるようにしたり、死後4日経った女性を生き返らせたりしています。

マタイ・マルコ・ルカの書物には「イエスが12の弟子を呼び集めて、彼らに悪霊を制して病気を治療する力と権威を授けた」とあります。

そして弟子たちは至る所で福音を宣伝し、病気を治療したことが書かれています。

「ミリンダパンハー」の記録には、釈迦が述べた言葉として「最上の内科医であり、外科医である」と書かれています。

「スッタニパータ」には釈迦の言葉として「私は矢の無上の治療者である」とあります。雑阿含経(ぞうあごんきょう)では釈迦のことを「大医王」と称していて、釈迦が母の体内に入った時、その母、摩耶の姿を見れば狂人が正常に戻り、摩耶が手をのばして病人の頭に触れると全ての病気は即座に治った。それは「法の医王」がその胎内にやどっていたからである。とあります。

仏本行集経(ぶつほんぎょうじっきょう)には、釈迦が誕生した時、全ての病人が皆治ったこと、盲人は目が見えるようになり、難聴の人は耳が聞こえるようになったことが書かれています。

古代の宗教は医療と密接な関係にあったため、偶然全てカブった可能性もありますが、イエスが仏教の教義・経典を読んでいた可能性もあります。

当時イエスは仏教の情報を知り得ることができたのでしょうか、またどのような経路で仏教を学んだのでしょうか。

聖書や死海文書の中ではキリスト教と仏教の接点は何も見つかりません。

イエスの言動と仏教の経典の類似性から、イエスは仏教徒だったのではないかと学者たちが推測しているだけです。

恐らく日本で一番最初にイエスはユダヤ教徒ではない。という研究発表をしたのは関口野薔薇という元キリスト教の牧師です。

関口氏は2つの書籍を紹介しています。

一つ目がロシア人のニコラス・ノトヴィッチが1887年にインドとチベットで発見した「聖イエスの伝記」という巻物で、それを英語に翻訳した「the life of saint issa」という書籍です。

2つ目が、カリフォルニア州ロシクルシャン団体が出版した「イエスの神秘な生涯the mystical life of jesus」という書籍です。これは世界各地で発見された断片的なイエス伝を集めたものです。

この2つの書籍を読むと、イエスが青年時代にカルデアからインド、チベットまで旅行し、東洋のあらゆる宗教を学んだことが書いてあるそうです。

インドのアショーカ王は仏教の宣教師をエジプト・シリア・マケドニア・キュレネ・コリントス・セイロンに派遣し仏教を布教したと言われており、この布教活動はイエスが産まれるより200年以上も前の話ですが、ベツレヘムで産まれたとされるイエスが、仏教に触れる機会は十分にあったと推測できます。

後世キリスト教がローマに入ると、当時のローマに根付いていたミトラ教という宗教をキリスト教が次々に上書きしていきます。

イエスの最後の晩餐は、ミトラ神のオリンポスでの晩餐の模倣でミトラ神は12神と食卓を囲んでいます。

太陽神ミトラの生誕が12月22日の冬至だったのでローマ人はこの日を盛大にお祝いしていました。キリスト教はそこに目をつけ、イエスの誕生日も12月22日だと言い出します。

実はキリスト教が最初にイエスの誕生日としたのは12月25日ではなく12月22日です、その後ユリウス暦がグレゴリオ暦に変わるタイミングで22日から25日に変更され、現在に至っています。

ミトラ教は古代ギリシャ・ローマ・インド・イランなどの様々な神と癒合し、イランではゾロアスター教、インドでは仏教に影響を与えた信仰です。

原始キリスト教、ユダヤ教が古代の日本に入ってきたことは間違い無いと思いますが、イエス本人が日本に来ていたかは、わかりません。

正統竹内家の口伝や九鬼文書にはイエスが日本に来ていたり、日本の祭典に出席していたとありますが、

その口伝や古文書自体が日本列島に入ってくるより前の記録なのかもしれません。インドでは、「聖トマス行伝」を信じる者たちの間で、トマスと入れ替わったイエスはインドで死んだと信じている人が多く、

トマスの遺骨が眠ると伝承されている大聖堂や洞窟などが聖地とされています。

これと似た様な現象が日本の青森県でもあります。


イエスは宗教を拡大させるための秘儀である、「死後の奇跡」を成功させましたが、

後世のキリスト教は神を掲げながら聖絶を行い、イエスが人類の罪を全て背負ってくれたと言います。

一方釈迦はヒンドゥー教に取り込まれ、いつの間にかヴィシュヌ神の生まれ変わりと言うことになり、人々を混乱させるためにやって来た、などと言われる始末です。

釈迦はバラモンのカーストに心を痛め、カーストの解放を強く求め戦っていました。

イエスはユダヤ人しか救われないという血統カーストの解放を求め、そのために「墓地からの復活」をはじめ仏教の秘義を借用したのではないでしょうか。

イエスとその弟子が仏教の経典を何も知らなかったとすれば、ここまで一致した伝承を作ることが出来たのは神業だと思います。

今回参考にした書籍もぜひ読んでみて下さい、最後までご覧いただきありがとうございました。

参考書籍

吾郷清彦他17名「神道理論大系」

中村元著書「原始仏典」

関口野薔薇著書「イエスはさけぶ」

茂木誠著書「イエス・キリストと神武天皇」

共同訳聖書実行委員会「聖書 新共同訳」


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