【倭族】モンゴル人とフェニキア人【燕】南西夷〜古書から日本の歴史を学ぶ〜
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こんにちは、今回はモンゴル人、倭人、フェニキア人の歴史についつお話しさせていただきます、宜しくお願い致します。
モンゴル(蒙古)人というのは、チンギスハンがモンゴル人を率いて中原に進出する以前は、契丹に従属していた室韋という民族で、室韋はモンゴル系民族の源流と考えられています。
チンギスハンの出身はその室韋のなかでも、さらに小部族であったキャト族という小部族であったと小谷部氏の著書にはあります。
「室」はアムール川の左岸を流れる支流のシルカ河(室建河)のことなので、室韋は「シルカ河の韋族」とも読むことができます。
[苗荒小紀]という書物によれば、「苗族のうちに韋(い)という姓がある」と記されているため、これが室韋の名になった可能性もあります。
蒙古は瓦の字で「蒙瓦」などとも音写されていますが、この「蒙」は苗族の自称であるモンを表し、「瓦」という字はチベットから雲南に移住していた瓦族を表しているとも考えられています。
※諸説あり
雲南にいた瓦族は佤族の混血なので、蒙瓦は佤族と苗族の混血であり、佤族は倭人の別派なので蒙瓦は満州にいた北倭系の混血部族ということになります。
佤族はワ語を話しますが、ワ語は、モン・クメール語族のワ・デアン語派に属し、バラク語、ワ語、アワ語の 3 つの方言があります。
現在の佤族は主にミャンマーのワ州や中国雲南省にある滄源倭族自治県などに分布し、彼らは自分たちのことを「ワ」「バラオケ」「アワ」などと呼んでおり、いずれも「山に住む人々」という意味だとあります。
文化人類学者の鳥越憲三郎氏は、「古代中国と倭族」という書籍の中で、雲南省とミャンマーの国境付近にいる佤族は倭人と同族であると主張し、水稲農耕や母屋と露台(ベランダのような部分)をもつ高床建築の他、銅鼓に刻まれた生贄祭祀の習俗などを共通風俗として紹介しています。
鳥越氏はその存在自体が否定されていた、日本における生贄祭祀について再調査をし「日本にもいけにえ祭祀があった」と論じた学者です。
雲南にいた倭族は、稲作と高床式の建物を伴って有史以前から数回にわたり、日本をはじめ東南アジアの地域へひろく民族移動をしています。
広範囲の地域へ移動を可能にしたのは、雲南からいくつもの河川が各地へ向けて流れていたためで、倭族の王国がいくつも築かれていました。
倭族の中には下流域へ向けて移動した一群もあり、それが後に越人と呼ばれるものですか、上古音では「越」も「倭」も共に「ヲ」W0であり、類音異字にすぎず、越人も断髪文人身の同じ倭族であったと鳥越氏は言います。
その越人が建国した土地(紹興)に近い河姆渡遺跡(かぼと)からは約七千年前の人口栽培による稲が大量に発見されました。
そして北に呉が建国され、さらに北上した倭族は山東半島にむけて淮・徐・郯などの漢民族からは東夷と呼ばれた国々を築きました。
河川を通じて移動した倭族のうち、蜀と巴(は)の2国は、漢民族の領域に近かったことから、秦の全国統一のときに討たれて属国となります。
その他の国々は西南夷と呼ばれ、漢民族からは政治の範囲外におかれていました。
ところが、前漢の武帝は中央アジアに通じるシルクロードの情勢が厳しいことから西南夷の地域を通って南路の開拓を目指します。
前漢の武帝は西南夷諸国の数々にわたる強硬な抵抗にあい、武帝の南路開拓の夢は実現しませんでしたが、これによって倭族の国の多くは滅亡しました。
生き残っていた滇国・夜郎国・昆明国も、三国時代に入った225年に蜀によって討ち滅ぼされ、ついに倭族の王国は姿を消します。
その後、唐代の750年に雲南省にある洱海という土地の周辺に蒙舎詔という君主が六詔を統一して南詔国という国を樹立しましたが、1253年に蒙古軍に討たれ、中国の地における倭族の王国は歴史の上で終焉を迎えます。
倭族はその後、相次ぐ争乱や漢民族による討伐によって、そのつど亡国の民は河川を伝い、あるいは山地へ難を逃れて亡命します。
その中でも山岳地帯に逃げ込んだ部族が今日では少数民族と呼ばれる部族になって、文化的に遮断された歴史を築いていきます。
倭族が他の民族と異なるもっとも大きな文化的特性は、稲の人工栽培に成功し、米を主食にする民族であるということや、水稲農耕という生活形態から、特殊な高床式住居と高床式穀倉を考案したことです。
山地に逃れた倭族たちは、水稲農耕から焼畑による陸稲への転換を余儀なくされた部族も多いですが、山岳地帯に住みついた部族でも、古来からの高床式建築を伝統的に守り続けてきました。
同じ山地に共住するメオ族やヤオ族という民族は、かつて黍や粟を主食にする畑作農耕民であったころの土間式住居の生活を今でも堅く守ってきています。
したがって高床式住居と穀倉は、元来は水稲農耕民であったという特殊な事情に起因した建築様式ともいえます。
稲作は他の多くの民族でも食生活の中に取り入れられましたが、高床式住居だけは後々まで、倭族を規定する顕著な文化的要素として、倭族と共に伝承されていきました。
雲南のワ族は人偏に瓦で佤族と書いていますが、「哈瓦(ハワ)」や「卡瓦(カワ)」などとも書かれているため、佤族は人偏のない「瓦」の字も使っていたと考えられます。
言語はカーシ族の支派のクメール語系であり、中国やミャンマーの少数民族が話すトーアン語やプーラン語に近いそうです。
中国史料には、ドアン族とプーラン族のことを「百濮」や「濮人」と記していて「濮人」は漢代には永昌郡に属していましたが、そのうちの「望人」や「望蛮」「望苴子」などと称された人々が佤族の先祖だとあります。
唐代、南詔政権が強力になると、佤族はさらに南遷を強いられ、元・明の時代には漢民族やタイ族に押し出されるかたちでミャンマーに移り住みます。
[漢書]地理志には「楽浪海中に倭人がある」と記され、朝鮮半島の西海岸を倭人の地としていますが、この地にはかつて馬韓があり、馬韓の言語は後の渤海語や日本語とほぼ同じ口語だったとあります。
[山海経]海内北経には「蓋(穢)国は鉅燕に在り 南倭と北倭は燕に属す」とありますが、[史記]の燕世家の実体を調べていくと、フェニキア人の移民だったことがわかります。
後に遼東の地で燕王を名乗っていた公孫燕や[契丹古伝]に登場する「知淮氏燕」の歴史を辿ってもやはりフェニキアに行き着きます。
フェニキア人は海洋民族であり主な移動経路は陸ではなく海です。
フェニキア人の船にはユダヤ人の商人も乗っており、彼らは中国史の「燕」の建国者です。
公孫燕は遼東半島でのちに公孫氏が建てた国ですが、この人々が持っていた神話の一つが、出雲神話の因幡の白兎に類似しているワニ騙し神話です。
マレー半島ではソロモン王の命によってワニを数えるという物語ですが、この神話はマレー半島と日本列島だけでなく、中国大陸や朝鮮半島にも残っており、この神話を伝承した人々の正体はフェニキア人であり、彼らはソロモン王のタルシシ船で渡来していたと考えられます。
古代史には膨大な学説がありますので、今回の内容はそのうちの一つだと思っていただいて、ぜひ皆さんも調べてみて下さい。
下記の参考書籍もぜひ読んでみて下さい。
最後までご覧いただきありがとうございました😊💖
📖参考書籍📖
鹿島曻著書「日本神道の謎」「史記解」「桓檀古記」「倭人興亡史」「倭と日本建国史」
大林太良編集「民族の世界史6東南アジアの民族と歴史」
鳥越憲三郎著書「古代中国と倭族」
小谷部全一郎著書「日本及日本國民之起原」
三笠宮崇仁・赤司道雄著書「フィネガン古代文化の光」
三森定男著書「印度未開民族 」
石井米雄著書「世界の歴史14インドシナ文明の世界」
長浜浩明著書「韓国人は何処から来たか」
中村啓信著書「古事記 現代語訳付き」
一然著 金思燁訳「三国遺事 完訳」
東洋文庫「三国史記1新羅本紀」
石原道博著書「新訂 魏志倭人伝・後漢書倭伝・宋書倭国伝・隋書倭国伝」「新訂 旧唐書倭国日本伝・ 宋史日本伝・元史日本伝」
E・ドーフルホーファー著書/矢島文夫・佐藤牧夫翻訳「失われた文字の解読 Ⅰ」
ミスペディア編集部「面白いほどよくわかる朝鮮神話」