海外赴任、シンガポールへ: 子どもたちの「カントリー・ロード」
シンガポール在住というと、「いいですよねー、英語が簡単に上手になるでしょう?」と言われることがよくある。そういう時はそんなに簡単なことでもないよ、とだけは言うものの、あまりそれ以上話すことはない。海外で勉強する、働く、暮らす、生きていく、ということは、そんな簡単なことではないと思っている。けれども、それを伝えるのは難しい。
8年前、6歳の娘は、毎年楽しみにしていた地元神戸の夏祭りの前に、親の都合で日本から海外へ連れてこられた。言葉の通じない学校に戸惑い、「トイレに行きたい」「私の分のプリントがない」「何を書いたらいいの?」「さみしい、お母さんに会いたい」自分の言いたいことや気持ちを先生に伝えるすべがない。友達もいない。同じ日本から来ている子供達からは冷たくされた。毎日涙を目に一杯ためてスクールバスに乗る。歯を食いしばって涙をぽとりぽとり落としながら宿題をやる。それでも毎日学校は一日も休まずに行った娘の辛い数か月はきっととてもつらい毎日だったと思う。
2歳の息子も、ある日突然飛行機に乗せられ、気づけば知った顔が一つもないバイリンガル幼稚園に入れられる。帰って来た息子に話しかけるが、ぼーっとして遠くを見るだけで何も話してくれない。あんなにおしゃべりをしてくれていた息子が無言のままの日々が続く。
海外赴任は間違っていたのではないか。子供には何も選択権がなく、彼らは親の都合で連れてこられたのだから。日本にいれば、こんな苦しい思いや辛い毎日を送らなくて済んだのだから。日本にいれば、優しい先生と良く知った友達に囲まれながら、慣れた保育園で今日も楽しく過ごせていたはずだ。
Look &Seeと呼ばれる、赴任前の事前準備の1週間では、家よりも何よりも、学校と幼稚園選びに優先順位を置いた。良い学校と良い幼稚園を選んだ後に、家の場所は決めようと思っていた。アポイントを取った学校と幼稚園をいくつもいくつも訪ね、先生と話しをし、キャンパスの雰囲気を肌で感じ、子供達が楽しく過ごしている様子をイメージできるか想像してみた。子供達にとって一番良い学校と幼稚園を選んであげたい。毎日長い時間を過ごすところだから。広く深く質の高い学びを得て欲しいから。良い友達に巡り会って欲しいから。
そうやって選んだ学校と幼稚園だったけれども、でもやっぱり子供達に無理をさせている。ゆっくりケアしてあげたいのに、自分自身に心も頭も余裕がない。自分も新しい職場、新しいアサインメント、新しいチームの中でいっぱいいっぱいで楽しむどころではない。毎日毎日自分を責め、自己嫌悪に陥り、自分の選択全てに自信を失ってしまいそうな数か月だったと思う。
ではどうやって子どもたちがそのトンネルを脱したのか。脱することができたのは、大きな二つの存在だった。一人(正確には二人)は学校で出来た友達。もう一人は私の実母、子どもたちにとってのおばあちゃんの存在だ。
6歳の娘にできた初めてのインターでの友達は、入学して3か月が経った頃だと思う。ベトナムの双子の姉妹で、口数の少ないどちらかと言えば大人しい子たちだった。彼女たちのお母さんに似て静かに本を読むのが好きで、はにかむように微笑んでくれる優しい姉妹だった。友達ができた、友達がいる、ということはこんなにも大きな影響を与えるのかと思った。友達は100人いなくてもいい。一人でも二人でも、良い友達がいることが大事だと伝えた記憶がある。
もう一人大事な存在が、赴任直後の1か月ともにシンガポールで過ごし、家も家族も様々な意味で整えてくれた私の母だ。私が仕事から帰宅するまでに、唯一見ることができた日本のTV番組ウルトラマンを子どもたちに好きなだけ見せていた。最寄りのスーパーでは、本来走り回ってはいけない場所だったけれど、あの一か月間だけは好きなだけ走り回らせて鬼ごっこをさせていた。こちらの本屋でたまたま買ったジブリの「耳をすませば」のDVDを子どもたちは毎日せがんだ。主人公の女の子が作ったカントリーロードの日本語の歌詞が流れるアニメの映画だ。
カントリー・ロード この道 ずっとゆけば
あの街に 続いてる気がする カントリー・ロード
ひとりぼっち 恐れずに 生きようと 夢見てた
さみしさ 押し込めて 強い自分を 守っていこ
カントリー・ロード この道 ずっとゆけば
あの街に 続いてる 気がする カントリー・ロード
歩き疲れ たたずむと 浮かんで来る 故郷(フルサト)の街
丘をまく 坂の道 そんな僕を 叱ってる
カントリー・ロー ド この道 ずっとゆけば
あの街に 続いてる 気がする カントリー・ロード
どんな挫(クジ)けそうな時だって 決して 涙は見せないで
心なしか 歩調が速くなっていく 思い出 消すため
カントリー・ロード この道 故郷(フルサト)へ 続いても
僕は 行かないさ 行けない カントリー・ロード
カントリー・ロード 明日は いつもの僕さ
帰りたい 帰れない さよなら カントリー・ロード
6歳と2歳の子供たちがどうこの歌詞を受け止めて理解したのかは分からないけれど、二人は数か月間、この歌を毎日来る日も来る日も歌っていた。
私の母は1か月後に日本へ帰って行ったが、母は、6歳と2歳の、心が締め付けられそうに震えている二羽のひな鳥を、大丈夫だよと羽根でくるんでいたような気持ちだったと話していた。今でもこの歌を聞くと、涙がこぼれてくると言っている。
海外で暮らすということは、そんなに簡単なことではない。越えなければいけない沢山の山や谷が、子どもにも大人にも立ちはだかる。変化を楽しめるように。人生の岐路を力強く切り開いていけるように。くじけないように。下を向いてもまた顔を上げられるように。沢山の人たちに支えられて、あれから8年。今日も子どもたちはこの世界のどこに行っても生き抜いていけるチカラを養い続けている。広い世界を、深い学びを、ここシンガポールを拠点に力いっぱい生きていると思う。私は一番の応援団長であり続けるし、私自身もこの世界を生き抜く力を、行けるところまで一緒に培って行きたいと思っている。