たからは、ココに。
「明珠在掌(みょうじゅ、たなごころにあり)」
これは禅のことばです。
昨年よりご縁あって茶道のお稽古を始め、ほとんど同時期にバガヴァッドギーターのクラスに。
並行して全然違うことを学び始めたように見えるかもしれませんが、実はそうではなかったことに後から気がつきました。
なぜならまずは、どちらも日常を問われるもの。
これは始めてから感じたことですが、所作を問われるということは、心を問われるということ。そして、心を問われるとは、その出どころの精神を問われること。
ごまかしがききません。
全然違う場所で、全然違う先生に教わって、なぜハッとする感覚が共通するのか?
不思議に思い調べてみるなら、それは全然不思議ではありませんでした。
もう当たり前の域。
★ここからは自分で歴史を調べて照らし合わせたので持論として捉えてください。分野分けされているせいか?グローバルな観点からの資料が皆無なのです。もしあったら教えてください★
茶道は日本独自の文化ですが、ただの飲食文化ではありません。
茶室の最も大切な場所である床の間には、禅語のお軸がよく飾られます。モチーフも大切にされており、有形無形、様々に取り入れられています。それに、縁のお寺は禅寺です。
禅も日本のものというイメージが強いですが、当然中国から日本に入ってきており、お茶と同時に持ち込まれたというのが定説です。
ではその禅を中国に広めたのは?
達磨大師…、つまり南インドの僧侶です。
バクティヨーガの経典でもあるバガヴァッドギーターは、インド哲学とも深く関連しています。
『禅』という言葉はそもそもが『禅那』といいます。
そしてこの『禅那』は、瞑想を意味するサンスクリット語が語源です。
ギーターにももちろん出てきます。
茶道のお稽古を始めてから気になって調べるようになった禅語。
ギーターの学びに似た感慨があるのも当たり前と言えるのでしょう。
冒頭の言葉も禅の言葉で、『宝は手の中に在る』ということ。
解釈は様々紹介されていますが、ギーターを少し学んだ後ではより深く、その言葉が響きます。
何層にも渡り自分の内を照らしますが、1番物質的なところで言えば、“ギーターは手のひらに”。そんなふうに感じられ、ますますこの言葉が好きに。
ぎゅっと凝縮されたこの本は、解説入りも手のうちに収まります。
500年前に様々な人の手を介してこの地に伝えられ、文化として浸透した宝。
それでも乱れ狂うこのカリユガの世に、今度はダイレクトに源流から言葉が届けられる。
こう感じて、ひとり感動✨
つかむのもまた、自分の掌。