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スウィート・スウィート・ベイビー

 子供が慾しい、とカナちゃんがいきなり云った。
「怖いこと云わないでよ」
「なんで怖いの? 一要君、子供嫌いなの」
「そういう問題じゃないってば。前にも云ったけど、結婚してないのに赤ちゃんが出来たりすると、苦労するのは女なの。判った?」
「そんな子供に云うみたいな喋り方しなくたって判るよ」
「怒鳴らなくたっていいじゃない」
「他のひとに頼む」
「あのねえ、買いものとか留守番じゃないんだから」
「父親なんか誰でもいいもん。アキラ君じゃなかったら、どんな奴だってみんな一緒だよ」
「そんな云い方されたら、幾らぼくでも怒るよ」
「怒ればいいじゃん。アキラ君のことやっかんで、脱色した髪ばっさり切った癖に」

 …………。

「カナちゃん、ねえ、開けてよ。謝るから、なんでもするから。とにかく返事くらいしてよ」
「ほんとになんでもする?」
「しないよ」
「嘘つき。アキラ君は絶対、嘘つかなかったよ」
「これ以上、明良さんの名前云ったら殺すよ」
「殺せばいいじゃん。天国でアキラ君に会えるから大歓迎だよ」
「もういい」
「え?」
「もういいって云ったの」
「誰に掛けてるの?」
「あ、護さんですか。お忙しいところ申し訳ありません。ぼく、今から実家に帰ろうと思うんで、誰か寄越して部屋のロックを解除していただけますか」
「なに云ってるの、一要君」
「あ、そうですか、判りました。失礼します」
「カナギシさんになに頼んだの」
「カナちゃんには関係ない」
「部屋からは出られないよ、カナギシさんじゃなきゃ開けられないように変えたんだから」
「だから今、電話したんじゃない。もう出られるよ。向こうから操作出来るんだって」
「ほんとに出てくの?」
「子供のお守りなんかやってられないんだよ。ぼくにだってやらなきゃいけないことがあるし、立場だってあるんだよ」
「子供って。あたし、一要君より六つ年上だよ」
「年齢なんか関係ない。カナちゃんは世間知らずの子供じゃないか」
「なんでそんなこと云うの」
「放してよ、それともぼくと一緒に此処を出てくの?」
「出ていかない……」
「明良さんが死ぬまで居た部屋だもんね。こんな処、カナちゃんさえごねなかったら、今頃、本来の倉庫に戻ってたんだよ」
「酷い、一要君」
「ぼくが酷いって? 冗談云わないでよ。いつ酷いことしたか云ってみせなよ。明良さんみたいに猫可愛がりしなかったから? 明良さんみたいにアルビノじゃないから? そんなこと知らないよ。ひとに無理難題押しつけて、平気な顔してるカナちゃんの方がよっぽど酷いよ」
「はい、一要君。そこまで」
「護さん……。本社に居たんじゃなかったんですか」
「携帯に掛けといて何処に居るか訊かないなんて、君も抜けてるねえ。明良が居たら大笑いしてるよ」


「こんなままごとがいつまでも続くとは思わなかったけどね、一要君はもう少し大人だと思っていたよ。ぼくの読みが浅かったな」
「カナちゃんは何処へ連れてかれたんですか」
「半年近くも男性と暮らしてたんでねえ……、一応いろいろ検査しないとね。彼女はあれでも上条家の人間だから」
「上条家なんて、もうひとりも残ってないじゃないですか。明良さんで最後だったことくらい知ってますよ」
「そりゃ知ってるだろうねえ。隠してある訳じゃないし、知られて恥ずかしいことでもないし」
「孤児と浮浪者でどうしようっていうんですか。トップのすげ替えなんか幾らでも出来るんですよ」
「さすが法学部を史上最年少主席で出ただけはあるねえ、お手並み拝見といこうかな。断っておくけど、ぼくは君の記憶の中にある明良の隣に居た人間とは違うよ。争いごとを好まなかった明良とは正反対でね、なにしろ血が繋がっていないから。それにあいつが死んだ今となっては、上条家がどうなろうと、はっきり云って知ったこっちゃない」
「あんた、役者になれば。小島さんよりよっぽど演技力があるよ」
「小島君なんかと比べられてもねえ……。ぼくはね、記憶にある限りずっと演技してきたんだよ。十数年演技を齧った人間と一緒にされるのは、侮辱以外の何ものでもないなあ。他人の演技だってそこら辺の評論家よりも観てきている。どの役者も、ぼくからすれば大根だよ。わざとらしくて噴飯ものだ。君の大好きな小島孝次なんか、学芸会以下だね」
「化けの皮剥がしたって驚かないよ。噂なら幾らでも聞いてる」
「噂? 噂って君が女に殺されたとか心中したとか国外逃亡したとか? そんな人為的なものを君が信用するとはねえ。面白いな。じゃあ、明良が十代の頃、何したか知ってるかい」
「何って、入退院を繰り返しながら、独力で国内トップの成績で大学課程を……」
「あいつの十年間が、そんな一行の文章で表現出来ると思ってる訳じゃないよねえ」
「旧市で『赤い眼』って伝説化してるのが明良さんのことだってのは、裏じゃ常識だよ」
「裏? 裏って何かな。裏の意味を君が知っているとは思えないな。なんで国内外問わず十指のレベルに入る複合企業のトップで、当時世間から白痴扱いされていた三十才の男が、いつ死んでもおかしくない体だと判っていながら、襤褸布を纏った男か女かも判らない子供を拾ってきて、戸籍を偽造し、その嘘の戸籍を本物にする為に養子縁組までした真意が君に判るのかな」
「それは……」
「判らないだろう? 裏っていうのはこういうことなんだよ。明良が旧市で暴れ廻って『赤い眼』と恐れられてたことなんか、裏のうちにも入りゃしない。そんなのは父親も幹部も知っていた。知っていても揉み消さなかったのは、上条グループはその程度ではびくともしない。宇宙の果てで水が一滴落ちたほどのダメージすら与えなかったからだよ。しかも、明良が選んだ場所は、都合のいいことに新市ではなく、旧市だった。放っておいても構わないくらいの、それこそ砂粒くらいの話だ。何故だか判るか? 明良は生まれた時から既に価値がない、廃棄物同然の存在だったんだよ。塵芥が何をしようと痛くも痒くもない。いつでも灰に出来るからね。明良でさえそうだったんだ。君なんか、存在そのものを根刮ぎなかったことに出来るんだよ。この意味が判るかな。君だけじゃないんだよ。山田という姓を持つ人間すべてを消し去ることが出来るんだ。現代の人間は全員記号としてしか登録されていない。まあ、例外的に旧市や裏町の人間が居るがね。そんなものを抹消するのは指一本で出来る。ぼくというスペアを早々に用意したのも、上条総一郎が後妻を娶るのをがんとして拒否した、それだけの理由だ。そんな怯えた顔をして同情を惹くつもりか? 甘いな、ぼくは明良のように情で動く人間じゃない。あらゆる物事を盤上の駒としか考えない。自分を優位に立たせる為には犯罪さえ厭わないんだよ。ぼくはこの世のすべてを憎んでいる。明良が生きているうちは、そういう感情は眠った振りをしていたけどね、今は覚醒して日夜爪を研いでるよ。どうやってこの憎しみを演出しようかと、木薪八郎よりも練り上げているんだ。こんな屑の名前を出したのは、君に判り易いように配慮したんだけど」
「悪魔……」
「悪魔か、随分可愛らしいものに喩えてくれたね。それが君の限界だ、山田一要君。一要という名を考えたのは明良だったのを知っていたかい」
「明良さんが?」
「そうだよ。この国ではじめて紙幣に肖像画が使われた女性の名前からとったんだ。漢字を当てたのはぼくだよ、一番の要になるようにってね。その名の通り、今現在、ぼくの中では君の存在が一番の要になっている。君の周りにはスキャンダルが多過ぎた。何事も過ぎると毒になる。この場合、君と、君の周囲にだがね。しかし、毒というものは使い方を心得れば薬になる。君にとって致命傷になる毒が、ぼくには特効薬になるんだ。変換剤は小島孝次、というより彼の事務所の馬鹿どもだね。此方が何もしなくても、山田一要は死んだということを触れ廻ってくれた。ついでに云うとカナコ、取り敢えず今のところは上条加奈子となっている娘だけれど、彼女には戸籍なんかない。鈴木加奈子も上条加奈子もデータの上では存在しない。あれはぼくが用意した、明良への最初で最後のプレゼントだ」
「あんた、義理の弟まで騙して何が面白いんだ」
「面白い? 人間は面白くもないことの為に、あらゆるものを犠牲にしてこんな歪つな世界を造り上げたんだよ。存在しない神という概念を作り上げ、良いことも悪いことも全部そいつの所為にした。信じてもいないのに信じている振りをして、整列からはみ出した者は情け容赦なく抹殺した。自分に都合のいいことだけ取り上げ、不都合なものは排斥する。人間と謂うものは、我が儘勝手な自尊心ばかり肥大した化けものだ。そういう遺伝子が組み込まれているんだよ、ぼくにも君にも、明良にもね。——ただ、明良には色素がない代わりに特殊なフィルターが備わっていた。どんな物事も、彼の中を通過すると白く……、善になった。だから彼に附属していた時はこんなぼくでも、いいひとみたいに見えたんだよ」
「明良さんが死んだから、あんたはもう支えがなくなったんだな」
「支え……、ねえ。まあ、そういう云い方をしても構わないけれど、ぼくはあんな片端者が居なくたって、ひとりで立っていられるよ」
「どうしたいんだよ」
「居ないものを居なくする、ごく単純なことをしたいだけだよ。『上条加奈子』を盤の上から取り上げる。死んだこと、或いは逃亡かな……。そういうことになっている君を、ちゃんとその状態にする。ゲームの規則に則って行動するだけだ」
「ぼくが此処に居ることは父さんだって……」
「肉声で伝えたかい。現代人の悪癖が身に染みてる君は、実の父親ともメールでしか連絡しなかった。その携帯電話はぼくの携帯にしか繋がらないんだよ。そして山田一要は、うーん……、三十四分前に消えた。きれいさっぱりね。生まれた情報すら残っていない。だから煮るなり焼くなり好きにしていいんだよ。この部屋は恰好の場所だ。此処はずっと倉庫という名義で登録してある。あの娘が此処に住みたいと云った時は明良に感謝したくらいだったよ」
「彼女は今、何処に居るんだ」
「教える必要はないけど……、この隣に居るよ。明良が仆れた時に医師と看護士が待機していた部屋にね。生きているか死んでいるかは想像に任せるけど」
「明良さんが大切にしたものを、守ろうという気は起きないのか」
「死んだ人間に忠義を尽くしてどうするんだ。無意味なことは好きじゃない」
「ぼくのことを知ってる人間を殺して廻るつもりなのか」
「そんな面倒なことをするつもりはないよ。人間の記憶というものは非常に曖昧でね、簡単に操作出来るんだ。法律とくだらない音楽の知識しかない頭では理解不能かな」
「ぼくのことはどうでもいいから、カナちゃんだけはどっかにやるだけにしてくれよ。彼女が何したっていうんだよ」
「何をしたって? あの娘くらいぼくの頭を悩ませた人間は居ないよ。なにしろ彼女は、明良の附属物して此処に現れたんだからね。ぼくだって万能じゃない。明良の看板を掲げ持っているような娘を消すのには、それなりの手順を踏まなければならなかった。この部屋でひとりで居る分には邪魔にはならなかったから放置していたけれど、君という余計な因子がついてしまった。彼女の寿命を縮めたのは他ならぬ山田一要、君なんだよ」
「だったら、ぼくが来なかったことにすればいいじゃないか」
「そんなことは半年前にしてある」
「じゃあ、ぼくらをこれまで通り此処に監禁しておけばいいだろ」
「監禁した覚えはないよ。現に君は一週間前、この部屋から出た。ゲームは半年前に始まったんだ。そして終わらないゲームというものはない。これくらいのルールは判るな」
「もういいよ、あんたの声は聞き飽きた」
「……そうだね、可哀想だから最後に明良の宝物に会わせてあげるよ」

     +


「一要君、いつまで寝てるの」
「……ここ、どこ?」
「寝惚けてるの?」
「護さんは……」
「カナギシさんは帰ったよ。んーと、もう二時間くらいになるかなあ」
「カナちゃんは……?」
「お医者さんに連れてかれちゃった」
「何処の?」
「あたしが行くのはいっつも仁科総合病院だよ」
「なんで病院なんかに連れてかれたの」
「定期検診。ああ、そうだ。院長先生がこれ、一要君に渡してくれって」
「なに?」
「封筒に入ってるから判んないよ。アキラ君がひとのものは勝手に見ちゃ駄目だって云ってたもん。なにそれ、写真?」
「エコー検査のだ……」
「エコーって知ってる。山びこのことだよ。アサコさんが教えてくれた。神話でね、森の精が水仙の精に恋するんだけど、水仙は湖に映った自分ばかり見ていてちっとも気づいてくれないの。それで悲しみのあまり死んじゃって、森の中にその声だけが残るの。ずっと好きな水仙の精のことを呼び続けるんだよ」
「カナちゃんみたい……」
「アキラ君は鏡なんか殆ど見なかったよ」
「あのひとはそんなもの見なくても、自分のことがちゃんと判ってたんだよ」
「なんか一要君、変だよ」
「カナちゃんも変だよ」
「どこが?」
「だって、お腹の中に赤ちゃんが居る」

     +

「夢は深層心理の現れっていうけど……」幾らなんでも酷過ぎるんじゃないの、一要君、と護さんが云った。慥かに彼が云う通りなのだけれど、やはりぼくは目の前に居る、穏やかそうに微笑むひとが恐ろしくてならなかった。あんなに現実感のある夢は、二十一年間生きてきて見たことがなかったからだ。
 もう、ひとのことをそんな化けものでも見るような目つきで見ないでよ、と彼は苦笑している。
「脳っていう器官はね、現代の医学でもまだまだ判らないことだらけなんだよ。だから君が突然眠り込んでしまう原因も未だに解明されていない。眠り病とか突発性睡眠障碍とかナルコレプシーなんていうのは、ただ単に分類上名づけられただけに過ぎないんだ。君が発作的に眠りに落ちる時に体が硬直したりリアルな夢……、幻覚と云ってもいいけど、そういうことを経験するのも脳の神経が誤った信号を送ってしまうからでね、金縛りなんかは一種の超常現象のように捉えているひとも居るけど、覚醒時に起きることは先づない。脳が正常に働いていたらそんな間違いは起こさないからね。通常の睡眠をとるひとにもそういう脳の誤作動は起きるんだから、そんなに気に病む必要はないんだよ」
 昨日の午以降に起きた出来事の殆どが幻覚なんでしょうか、と訊ねたら、彼はくすくす笑って「ぼくが出てくる部分はね」と云った。じゃあ、と思わず腰を浮かすと、彼は黙って手で制した。
「一要君はどう思うの」
「ぼくは……。今日の十時頃に起きたことより前のことは、全部リアルな夢だったと思うんですけど」
 そう思いたいんだ、と笑いを堪えながら彼は云った。「カナさんから連絡があったんだけど……」という言葉に、ぼくの心臓は止まりそうになった。
「彼女も部分的に君と同じ夢を見たのかな」そういうケースがまったくない訳じゃないけど、と机の抽斗しから見覚えのある封筒を取り出した。あれは夢じゃなかった?
 そんな筈はない。今までそんなことになった例しがない。


「カナちゃん、どうしたのその頭」
 ホテルの最上階の部屋から来る時には肩を覆うように伸びていた髪が、まるで男の子のようにばっさり切られていたからだ。看護婦さんに頼んで切って貰ったの、と彼女はあっけらかんと云う。理由を訊いたら、育児する時に短い髪の方が色々いいってなんかで読んだと答えた。
「それ、何時代の話」
「えー、なんで? そんなに似合わないかなあ」
「似合う似合わない以前の問題だよ」
 そう指摘したら、気に入ってるからいいと膨れてしまった。
「だいたい検査入院しただけで、子供が産まれるのは八ヶ月も先なんだよ」
 なんでも準備が肝心だもん、と彼女は云う。
「それも明良さんに教わったの?」
「違う、運動の本に書いてあったの」
 そんなにアキラ君のこと嫌わなくてもいいのに——彼女は可笑しそうに呟いた。
 まさかこのぼくが父親になるとは思わなかった。これまでのぼくの行状を知っているひとが聞いたら、それは頭がおかしいか狂ったかのどちらかだと云うに違いない。でも、今まで避妊しないで性交したことは一度もないのだからしょうがない。
 護さんは、コンドームだって100パーセントの避妊なんか謳い文句にしてないんだよ、と云った。これは身の不運としか云いようがない。二十一才の男の殆どがそう思うだろう。
 別に子供が嫌いだとか彼女が嫌いだという訳ではないけれど、死ぬほど他の男に恋い焦がれている女の子の子供を可愛がれるかどうか自信がなかったのだ。
 彼女が思いを寄せている男性というのは、もうこの世に居ないひとだった。余程悪いことをしたひとでない限り、死んだ後まで悪く云われたりはしない。そのひとは完璧なひとではなかったけれど、彼女にとっては神にも等しい存在だったのだ。
 上条明良という名のそのひとには色素がなかった。所謂、アルビノという突然変異である。
 もうそれだけで印象的に負けているというのに、彼は孤児だったカナちゃんを亡くなる一年半ほど前にチンピラに搦まれているところを助け出し、襤褸屑同然で、文字も世の中の常識も碌に知らなかった彼女を王女に仕立て上げたのだ。殆どお伽噺の世界の話である。そんなことなどやれと云われて、すべてお膳立てしてもらってもやれる自信がない。
 自信がないことばかりだった。

「はあ、コシマさんの処から出て、何処に厄介になっているかと思ったら」と呆れたように云ったのは、いつまで経ってもふらふらしているぼくを姉のように見守ってくれているカズホさんだった。
 彼女は、一要にお父さんなんて勤まるのかなあ、と溜め息をついて心配そうにぼくを見つめた。全然自信がないと正直に云ったら、「そんなこと云っても八ヶ月後には生まれてくるんだよ、二十一で父親になる奴なんて世の中に掃いて捨てるほど居るんだから」あんたも男なら覚悟決めなさい、と怒られてしまった。
 ぼくが伝えるより先に護さんから話を聞いていた父は、これでおまえも落ち着くだろう、と喜んでいる。母は、この年でおばあちゃんになっちゃうの、と云いながらも、やはり嬉しそうにしている。はじめてした親孝行がこんな事態になるとは思ってもみなかった。
 兎に角、誰でもいいからぼくと一緒に困って慾しかったが、そんな人間はひとりも居なかった。
 恐らくぼくが一番困らせた他人、小島孝次は、大笑いしながら「おまえ、天罰が下ったんだよ」と云った。
 まあ、そう云われてもしょうがない。そもそも、ぼくに会ってくれたこと自体が奇跡といってもいいくらいなのだから、とことんおひと好しなのだろう。彼を見るだけでどういう訳かむらむらと怒りが込み上げたものだったが、そんな感情は憑きものが落ちたように消え失せていた。
 それをカナちゃんに云ったら、「一要君の病気がひとつ治ったね」と笑っている。
 こんな屈託のない女の子が、ぼくより六つも上とはいまだに信じられない。裏町なんかに住んでいたのだから正確な年など判る筈もなかったが、六つも間違えるようなことはまずない気がする。
 明良さんに頼まれ、あらゆる手を尽くして彼女のことを調べた護さんも、年齢に関しての誤差は前後一年以上は考えられないと云っていた。
 夢でこのひとが彼女の戸籍など作らなかったときっぱり云っていたが、直接役所で調べたら、ちゃんと明良さんとの養子縁組は成立していて、ホテルの最上階も倉庫ではなく個人宅として届け出てある。その時ついでに入籍手続きも済ませた。
 ぼくは山田という平凡というか、逆に珍しいと思われるかも知れない苗字から、上条という立派な苗字になってしまった。ぼくの方が向こうの家に入るのは、もう誰に云わせても当然のことだった。ぼくの父が社長を務める会社の親会社に当たる組織が上条グループなのだから。
 妻、となったカナちゃんに見せる為に彼女のIDカードの更新も済ませた。
 何故だか溜め息が出てしまう。
 上条一要なんて韻を踏んでいるみたいだし、なんかもの凄いことをしなければ申し訳ないような字面だったからだ。せっかく法律を学んだのだからそちら方面で皆から崇められるような人物になるか、趣味でやっていた音楽方面で名を残すか、そのふたつの選択肢しか思いつかない。
 どうしてこう、後から後から思いもしなかったことが降り掛かってくるのだろう。今が人生の転機という時期に当たるのだろうか。
 特に意味もなく、明良さんが創設した東六区図書センターへ足を運んだ。二階の書棚にあった赤い表紙の『新明解国語辞典』という古い辞書で、不安という言葉を引いてみた。
 ふあん[不安] 不結果(最悪の事態)に対する恐れに支配されて、落ち着かない様子。「ーーを感じる(訴える・与える・もたらす・取り除く)/ーーに襲われる/ーーが△つきまとう(残る)/ーーに思う/ーー定な地位」
 というところまで読んだら、すぐ隣に髪が長く、痩せた背の高い青年が立っていることに気づいた。笑いを堪えているとしか思えない表情でぼくを見ている。
「おにいさん、若いのに何がそんなに不安なの」と云って、ついにくすくす笑い出した。失礼なひとだな、と思ったが、悪気はまったくなさそうだし、よく見たら胸に「キノシタ」と書かれた名札をつけているので社員なのだろう。
「どうして不安の項目を調べてることが判ったんですか」と、そのキノシタという青年にぼくは訊ねた。
「だって口に出して読み上げてんだもん、お経みたいに」
 こんなひとをおちょくったような社員を雇っていていいのだろうかと考えてしまったが、キノシタというのは何処かで聞いた覚えがあるな、と思った。ぼくがそう考えていることなど気にもしないで、彼は広げているページに顔を近づけ別の項目を小さな声で読み上げている。
「ブイアイピーって片仮名で書くだけで、いきなり阿呆に思えるのはなんでだ……」と云っているので、そこを見てみたら、慥かに彼が云う通り間抜けな感じがしたので笑ってしまった。すると青年は「お、不安が笑った」とぼくを指差した。
 おかしなひとだなあと思っていると、差した指をくるくる廻して、「だんだんあなたは眠くなる……」じゃなくて、などとぶつぶつ云っていたが、はたと手を打ち、「思い出した。スケこましの山田一要」と呟き、納得顔になった。
 護さんに云ってこのひと、馘にして貰おうかなあと思っていたら、「色川武大、ナルコレプシー、リバー・フェニックス、キアヌ・リーブス、マトリックス、ウォシャウスキー、バウンド、ホモ・セクシャル、るるる……、ルーペ」と小声で呟く内容が、連想ゲームからいつの間にかしりとりになっている。途中までを聞く限りではかなり映画に詳しそうだったので、映画が好きなんですか、と訊ねてみた。
「特に好きじゃなかったが、社長に仕込まれていつの間にか映画オタクに……」
 護さんが自分の企業傘下の施設の社員に映画を観ろなどと押しつける筈はないので、彼が云っているのは明良さんのことなのだろう。ということは三十二、三くらいなのだろうか。とてもそうは思えない。
「社長って、上条明良ですか?」
「そう、前社長な」と答えて、腕を組み俯いて何かを考えている。
「ああ、一要って奴、もうひとり知ってると思ったらハクヨウだった」と云った。普通は樋口一葉を思い出すものなんだけどなあ、と思っていたら、
「別に樋口一葉を知らない訳じゃない」
 と、考えを読んだかのように云った。
「ハクヨウってのはおれの後輩。どんな字、書くか判るか?」と、またぼくを指差す。携帯電話で変換して「白洋」という文字が表示された液晶画面を彼に見せた。
「ある意味正しい。彼は洗濯屋と親友から呼ばれている」ケンちゃんじゃないぞ、と云って、ぼくの携帯電話を取り上げると、勝手に弄ってこう書くのだ、と返してきた。そこには「栢窈」とある。こんな字があるんだ、と思わず呟いたら、「だろー」と云って肩に腕を廻してくる。
 そしてぼくの顔をまじまじと見つめ、眠くなんないの、とつまらなそうに云った。
「意識して眠くなれるものじゃないですし、起きてからまだ三時間しか経っていないので、先づ、この建物の中で寝ることはないです」ときっぱり云ったら、うーん、不安の欠片もなくなったようだな、と彼は呟いた。若しかして、これまでのおかしな言動はぼくを元気づける為にやっていたのだろうか。そして、
「で、何が不安なの。女孕ませたとか」
 と、いきなり核心を突いてきた。なんで知ってるんですか、と思わず云ってしまった。
「え、当たっちゃった?」と、彼は仰け反った。


 何故か三階の一番奥の応接室のような処で、キノシタという男を相手に人生相談のようなことをする羽目になってしまった。
「ほんとに上条、世界の上条。二十一才で子持ち」と、ぼくが渡したIDカードを眺めながらひとごとだと思って呑気に呟き、「社長に娘が居たとは知らなんだ」とか、「おまえ、上条一要なんて名前になったら、史上最低の碌でなしになるか総理大臣にでもならんとカッコつかねえじゃん」とか云っていた。
「そうだ、おまえ既に実績があるんだから、ジゴロになれよ」
 まぁさにジゴロ~、だめーなジゴロ~、といういい加減な歌声で、やっと彼が何者かに思い当たった。アマチュアバンドである『ナナシ』の木下亮二だ。彼のバンドは古い曲を死ぬほど暗いアレンジでカバーするのと、高校時代に結成して以来、一度もメンバーが変わっていないことで有名だったのである。
「ナナシの木下さんだったんですか」と云ったら、悪いか、と答えた。
「誰も悪いなんて云ってないじゃないですか」
 それに応えて、「敏感なお年頃なんだよ」と彼はそっぽを向いた。お肌の曲がり角だしな、と云っておきながら、煙草に火を点ける。明良さんが気に入っていたのがなんとなく判るような気がした。子供のようにもの怖じしないところが、カナちゃんに凄く似ているのだ。
「社長の娘って美人なの」と、彼はいきなり訊いてきた。美人という訳じゃないですけど、と答えたら、
「十人並みの女の顔におまえの面構えを足すと、どう考えても娘は不味い。息子が生まれるよう、カミさんとこに帰る前にこのちょっと向こうにある寺で念じて行け」と、失礼極まりないことを云う。
「カナちゃんは別に不細工じゃないですよ」
 彼は「いい年してちゃんとかゆってんじゃねえよ」とぼやくように云った。護さんに云って馘にして貰いますよ、と返したら、
「お、入籍したその日に権力を振り翳すとはいい度胸してるじゃねえか。先刻まで新解さんで『不安』を調べてた奴が」と笑った。
 図書センターを出てすぐ、護さんへ木下さんに会った旨をメールで伝えた。間髪入れず、「彼は馘にしないよ」という返信が来た。会ったというだけでその先が読めてしまうとは、大抵のひとの彼の第一印象というものは概ねぼくと同じなのだろう。
 翌日、部屋に戻ってきたカナちゃんに変更されたIDカードを渡したら、「なんであたしの苗字が変わらないの」と不服そうに云った。
「誰が考えたって格下のぼくの方が養子になると思うよ」
 彼女は二回も苗字が変わったからいいか、と呟いていた。明良さんの苗字に執着しないのが不思議だったが、女の子は結婚して相手の名前に変わるのを楽しみにするものなのかな、と考え直した。
「昨日、面白いひとに会ったよ。明良さんがすごく気に入ってたらしいんだけど、木下っていう男のひと。バンドやってるんだけど」
 そのひと知ってる、とカナちゃんは云った。明良さんの口から聞いたことはなかったそうだが、彼が死んだ後、『小坊主』というライブハウスで追悼ライブを(そう銘打ってあった訳ではなかったそうだが)演ったのだそうだ。
 その時の映像を見てみたが、とても十年前の姿とは思えなかった。
 大きな液晶モニターに写し出された荒い映像の中の彼は、昨日とまったく変わらなかったからだ。年をとらない病気なのかな、と思わず呟いたら、「これと全然変わってないの?」そうカナちゃんは訊いてきた。ぼくが頷くと、整形したんだ、と笑った。そんなことするひとにはとても見えなかったよ、と答えながら、ぼくも吹き出してしまった。
 ナナシの曲はどう考えても胎教によくないものだったので、三曲くらいで見るのをやめた。
 それにしても、あんなひとの何処にこんな暗さが潜んでいるのだろうと首を傾げたくなる。昨日会った木下さんは、バンドマンというよりお笑い芸人のようだったからだ。年齢的に結婚していてもよさそうなものだが、あんなひとの相手を毎日していたら疲れるだろうなあ、と思ってしまった。
 後日、本人から聞いたのだが、大学一年の時に知り合った女性といまだに結婚もせず、一緒に暮らしているとのことである。そのキヨセという女のひとは図書センターの一階で事務をやっていて、会ってみたら、ああ、こういう呑気なひとだからあれに耐えられるんだ、と変に感心してしまった。
 すると、彼女よりもっと古くから彼とバンドをやっているリズム隊のふたりも、相当変わり者なのだろうな、と想像した。
 カナちゃんは赤ちゃんが大きくなった時の準備、と云って、胸の辺りで切り替わったふわっとしたワンピースの中にクッションを入れて歩き廻っている。準備することが気に入ったらしい。
 じゅんび[準備] ――する<なにヲ――する>△いざという時に備えて軽く試みたり、起こりうる条件を予想して必要な物をそろえておいたりすること。「――を△急ぐ(勧める・整える・怠る)/心の――が出来ていない/――運動・――体操・下――・受験――中[=営業中]
 ぼくらの今の状態は、この項目にぴたりと当て嵌まっていた。彼女は「心と体の準備を整え」、ぼくは「心の準備が出来ていない」。
 コンピューターの音楽のフォルダを開くと、エリック・サティの『ジムノペディ』がやたらとあった。適当に選んで聞いてみたら、静かなピアノ曲である。カナちゃんがクローゼットの間仕切りから顔を出し、「アキラ君の曲だ」と嬉しそうに云った。
 彼はよくこの曲を夜に聴いていたそうだ。慥かに落ち着くメロディーである。
「この曲、お腹の赤ちゃんにいいと思うよ」ぼくがそう云ったら、聴こえるの? と吃驚したように訊いてきた。
「ちゃんとお母さんの聴いたものが赤ちゃんにも届くんだって」それを聞いて、すごーい、とカナちゃんは子供のように手を叩いた。
 他に入っていたのはパッヘルベルの『カノン』や、バッハの『オーボエとチェンバロのためのソナタ』『オーボエと通奏低音のためのソナタ』などのクラシック音楽ばかりだった。
 午後に、以前この部屋にはじめて泊まった時に彼女が観ていた『ウェイトレス』という映画を観た。片田舎のダイナーで働く女性が予定外の妊娠してしまう話である。この中では困ってうろたえるのは女のひとの方で、後から知らされた暴力的で嫉妬深い夫は、跪いてまで喜んだ。ぼくと正反対である。
 あの時、ぼくは最後の方を観ただけだったけれど、やはり最後にかかる歌がとてもよかった。
 明良さんの書斎だった部屋に置かせてもらっているギターで弾いてみた。横でカナちゃんがもの珍しそうに眺めている。そういえば、此処へ来てギターに触るのははじめてだった。
 映画を逆戻しして何度も曲を聴いてはコピーして、ほぼ完璧に弾けるようになる頃には夕方になっていた。彼女は飽きてしまったのかソファーで寝ている。

      +

 つわり[「眼が出る・食に偏りが出る」の意の雅語動詞「つはる」の連用形の名詞用法]妊娠の初期、吐き気とともに食物の好き嫌いの激しくなる状態。多く酸味を好む。

 妊娠三ヶ月くらいになっても彼女は食事を戻したり、好き嫌いが変化したりはしなかった。酸っぱいものはもともと嫌いだったので口にしない。ただ、やたらとチーズケーキを頼むようになった。
 彼女にとってこのケーキは特別なものだったらしく、何か嬉しいことや楽しいことがあった時にしか頼まなかった。
 護さんにこれくらいの時期でもつわりにならないのは何処かおかしいんじゃないかと訊ねてみたら、つわりが軽いひとはよく居るとのことである。
 時々、図書センターへ木下さんに会いに行った。カナちゃんはホテルの近くにある『ヒヨリ』という喫茶店にしか行かないので、一緒ではない。
 或る日、木下さんがコンピューターでデータをチェックしながら、「煙草はやめたのか」と訊いてきた。なかなかやめられません、と答えたら、妊婦の近くで喫うなよ、と咥え煙草で云う。いちいち言動不一致なひとである。
 まあ、ぼくが妊娠している訳ではないからいいのだけれど。
 ちゃんと最新の空気清浄機のついている明良さんの書斎でしか喫いませんよ、と答えたら、「書斎かあ、さすが金持ち。広いの?」と訊ねるので、十畳くらいしかないですと答えた。
「はあ、あのひとの考えてたことはほんと判んねえなあ。映画の好みも一貫性がなかったし」
 木下さんは首を傾げ、天井へ煙草の烟を吹き出した。
 カナちゃんは明良さんがヘビースモーカーだっただけあって、煙草の匂いを厭がらない。というより、寧ろ好きだった。書斎にある机の抽斗しには、ハイライトのカートンが入ったままになっている。
 その抽斗しの中に「カナコ」と書かれた封筒が入っていた。男文字だったが、護さんの筆跡ではないので、明良さんのものなのだろう。見てはいけないような気がしたが、好奇心に負けて中を改めてしまった。
 そこには幾枚かの写真が入っていた。
 十代の頃と思われる明良さんと、同じ年くらいの可愛らしい女の子が写っている。明良さんは髪を切る前のぼくのように長い髪だった。写真の裏には、裏町のカナコ、と走り書きのように記されている。
 愉しそうに笑うふたりの姿は、とても微笑ましく思われた。この女の子がカナコというのだろうか。カナちゃんの名前は彼女からとったのかも知れない。そのことをカナちゃんに訊く気にはなれなかったけれど、写真の彼女も同じように、裏町の人間なのだ。
 この年くらいの明良さんと、ぼくは会ったことがある筈だ。子供だったぼくからすると、父の関係者としか認識出来ず、そんなひとに私生活があるとは思いもしなかった。
 よく考えてみれば、明良さんは父親の仕事に付き添って来ているだけの、まあ云えば、野次馬的な子供だったのかも知れない。
 その頃にやんちゃをして、好きな女の子を見つけた。それはごく普通のことだったのであろう。普通と若干違ったのは、明良さんが必要以上に金持ちだったことくらいだ。
 厳密に云えば、明良さんが金持ちだった訳ではなく、親が裕福だったに過ぎない。子供は生まれる環境を選べないのだ。
 家が裕福であることは、子供にとって良いこともあり、悪いこともある。悪いことは、金持ちというだけで差別されるのだ。まあ云えば逆差別であるが、普通は必要以上に収入がある家庭は、少数派に括られる。金持ちは特権階級であり、マイノリティーなのだ。
 どのような世界でも、少数派は虐げられる。下層の者は実質的な差別を受け、上層の者は曖昧な、空気的な差別を受ける。但しこの場合、受ける側の感性が鈍いと、何も感じない。
 貧しい者はそれぞれに補い合い、己れで羨望も憎しみも消化する術を学んでゆく。しかし、富める者は己れの何がいけないのかを知る機会がない。あったとしても、気づかないことが多い筈だ。
 人格の良し悪しは、環境に左右される訳ではない。裕福の是非はこの際、関係ないだろう。明良さんの場合、問題は相手が貧困層と括ることすら出来ない、人権も剥奪された裏町の女性だったということである。
 新市に生まれた者と旧市の住人の間ですら、関わりを持つことが稀である。ましてや裏町の人間とは関わったとしても、深くつき合うことは難しかった筈だ。
 明良さんは未婚のまま亡くなった。浮いた噂を聞いたこともない。写真の女性とは、青春期の淡い恋だけに終わったのだろう。その写真を大切に取っておき、同じ名前の娘を養女にしたのは、それ相応の思い入れがあったに違いない。

 つわりはなかったが、カナちゃんはよく眠るようになった。ぼくのように前触れもなく眠り込んでしまうのではなく、大抵は食事をした後に眠くなるようだ。食事の量が少し増えたが、元が痩せ過ぎだったので恰度いいくらいの体型になった。
 ぼくはと云えば、木下さんほどではないが標準よりは痩せたままである。生活もさほど変わらなかったし、眠りの発作もなくならなかった。
 此処のコンピューターは管理の為なのか、カナちゃんの為なのか、図書センターのライブラリーと直結している。映像の中から今の彼女に観せてもいいような映画を探してみた。古いふるいフランスの監督の作品が良さそうに思えた。
 ジャック・タチというひとである。
 彼女が起きてから『プレイタイム』というのを観た。タイトルが出てすぐに写るビルディングを見て、このホテルみたい、と彼女は嬉しそうに云った。高さは兎も角、慥かによく似ている。
 映画はSFというジャンルに入るのかも知れないが、女の子が喜びそうな可愛いお洒落な映画である。監督自ら『ユロ氏』というキャラクターを演じていた。
 夕食の後、カナちゃんが観たい、と云うので『恋する惑星』という香港映画を観た。二部構成になっていて、後半に出てくる髪の短い女の子が彼女そっくりだった。あんな服着たいなあ、と云っていたと思ったら、翌朝起きると本当にその通りの恰好をしていた。
 映画では夏だったので半袖だったが、長袖のTシャツに、少し長めのスカートを素足で穿いている。幾ら空調が利いているとはいえ、妊婦が裸足でいては不味いだろうと思い、ちゃんとタイツを穿いた方がいいよ、と云うとおとなしく従った。
 やはり彼女の方がぼくより年下のようにしか感じられない。頭が悪いとかそういう訳ではないのだけれど。


 六ヶ月目になるとさすがに妊婦らしい体型になってきた。お腹も大きくなってきたし、ぺたんこだった胸も膨らんできた。
 腰が痛いと云ってよく横になるようになり、体が怠いとか立ち眩みがすると云うので病院に連れていってみると、妊娠していたら当然の症状で胎児も羊水も異常はないとのことである。
 前にも訊かれたのだが、男の子か女の子か知りたいですか、と訊ねられ、彼女は少し考えて今はいいと答えた。女医さんは、「じゃあ後のお楽しみにしましょうね」と笑った。
 彼女は『恋する惑星』の女の子の髪型がよほど気に入ったらしく、ずっと短いままだった。ぼくの方は脱色した部分を切り落としてから一度も散髪しなかったので、逆に長くなっていった。
 妊婦服はわざわざ買わなくても、彼女の持っているワンピースがAラインやふわっとしたものが多かったので、それで間に合った。大きくなったお腹に手を当てたり耳を寄せたりしたが、やはり自分の子供がこの中に入っているという実感は湧かない。
 前よりは軽くなったが、やはり不安な気持ちは蟠っている。
 そのことを木下さんに云うと、男ってのはそういうもんらしい、と云った。彼のバンドのドラムのひとも、同じようにバンドをやっているナガミとキクオというひとも、子供が出来た時はどうしていいか判らなくて、おろおろするばかりだったという。
 特にキクオというひとは、年下ではあったが子持ちのひとと結婚して、子供の世話は手慣れたものだったが、奥さんが妊娠中はずっと不安そうにしていたという。
 映画が好きなカナちゃんであるが、彼女はもともと恋愛コメディが好きだったので、そういったものには刺激的なシーンはないだろうと思い、勝手に選ばせていた。
 いつもの発作でソファーの上で眠ってしまい、目を覚ましたら、カナちゃんは窓際に置いたままのモニターを喰い入るように見つめていた。
 黒い服を着た女のひとが海辺に置かれた木箱の隙間から手を入れ、中にあるピアノをぽつりぽつり弾いていた。何処かで聴いたことのあるメロディーである。
 女のひとは口が利けず、手話で思いを伝えていた。手話の手の動きというのは随分優雅だなあ、と思った。映画の内容はあまり妊婦に勧められるようなものではなかったが、彼女は感動しているようである。
 音楽がとてもきれいだった。音楽が「きれい」というのはおかしな表現かも知れないけれど。
 女のひとが何度も弾いていた曲は、明良さんの音楽のファイルにあった。
 マイケル・ナイマンの『the sacrifice』という曲である。意味は「犠牲」。
 女のひとはヨーロッパから写真でしか知らない男の許へ嫁ぐ為、遥々海を渡ってニュージーランドへ行った。夫は彼女の唯一の趣味であるピアノを、現地の者たちにとけ込んで、顔に入れ墨までしている白人の男に売ってしまう。彼女はピアノを取り戻す為にその男の家へ通い、男は服を一枚脱ぐごとに鍵盤を一本づつ返してやるという交換条件を出した。
 毎日そこへに通ううちに、夫に心も体も許さなかった彼女は、野蛮な男に少しづつ惹かれてゆく。娘が些細なできごとに腹を立て、嫌っていた義理の父に母親が男の許へ毎日通っているのを告げ口してしまう。怒り心頭に達した夫はその家へゆき、妻と男の情事を覗き見た。
 夫は、薪を割る木の切り株の上に裏切った妻の手を乗せ、斧を振り下ろす。
 それが「犠牲」なのであろう。
 ぎせい[犠牲] [「犠」も「牲」も「いけにえ」の意]ある目的のために、そのひとの生命やかけがえの無い物を提供すること。「若干の――を払う/独立運動の――になる/仕事を――にする/――を最小限にとどめる」
 これを観て、ぼくは明良さんのことを思い出した。彼は父親の死後、殆どの時間を企業の運営に費やしたという。滅私の精神というのだろうか。何かを喪失した彼は、己れを満たそうとはしなかったのだ。
 ぼくはカナちゃんや生まれてくる子供の為に、自分のすべてを差し出すことが出来るだろうか。

     +

 彼女のお腹に触ると、中で赤ん坊が動いているのを感じた。ものすごく不思議な感じがする。ギターにアレンジした『ピアノ・レッスン』の曲を弾くと、彼女は笑ってその曲、好きみたいだよ、と云った。
 久し振りに木下さんの処に顔を出すと、ぼくに紙袋を寄越した。中にはぎっしりお守りが入っている。安産祈願から学業成就、交通安全まであった。
「清世が買ってきたんだけど、どれもこれも可愛いからって、そっこらじゅうで女の子らしい色のを集めてきたんだよ」
 一生使えますね、と云ったら、そういう考え方もあるな、と彼はくすくす笑う。いつ産まれるのかと訊ねてきたので、一応六月です、と答えた。彼が九日に産まれるといいなあ、と呟くので、なんでですか? と訊ねた。
「六月九日、ロックの日。かっこいいじゃーん」と笑う。このひとと話していると、悩んだり不安がったりしている自分が馬鹿馬鹿しく思えてくる。
 木下さんが云ったことをカナちゃんに話すと、「ほんとに面白いひとだね。でも、六月六日に産まれたら悪魔の子になっちゃうよ」と笑った。
 桜が満開になる頃、ホテルの裏口から出てヒヨリ方向の左隣にある、まったく管理されていない小さな公園に植えられた桜の下で花見をした。花びらがひらひら舞っていたが、地面を見ると、花がそのままの形でたくさん落ちていた。どうしてこんな風に落ちるのかな、と不思議に思ったが、それはそれできれいだった。
 厨房のひとが作ってくれた花見弁当を食べながら、ふと、こんな風にいつまでも働きもせずにいては、幾らなんでもいけないだろう、と思った。
 それを護さんに云ったら、「ジョン・レノンもオノ・ヨーコが子供を産んだ時、育児に専念すると云って休業したからいいんじゃないかな」と、まるで木下さんのようなことを答えた。
 君はギターが弾けるんだから子供の為に曲を作ってあげればいい、ぼくが売り出してあげるよ、と護さんは笑う。本気で云っているのだろうか。
 木下さんにメールで、子供に聴かせる曲で何かいいのはないかと訊ねたら、「Charaの『せつないもの』。これ一曲で充分らしい」と返ってきた。
 コンピューターで図書センターのデータを開いて検索したら、ちゃんとあった。ピアノの弾き語りで短いものだったが、甘えたような癖のある唄い方をする女性ボーカルの曲である。

 手に手に手にし なきたいもの
 あなたのムネに 高まるもの
 みえないからせつないのよ
 目に目に目にし こぼれるもの
 せつないもの

 簡単なメロディーラインだったのでギターを爪弾きながら唄ってみた。子供に聴かせたら安心して眠ってしまうだろう、と思えるゆっくりとしたテンポの曲である。そういえば木下さんの作る曲も、暗いけれどゆっくりしたテンポのものばかりだった。間奏になると歪んだりして、必要以上に喧しくなるのだが。
 カナちゃんはぐっすり寝ていて、夜中の三時過ぎだった。
 ヘッドホンで繰り返し曲を聴き、音が響かないエレキギターで音を探ってゆく。ひとり暮らしをしていた頃、こうしたことをよくやっていた。音を奏でるだけで、心が満たされ、孤独から逃れられるような気がしていた。
 本当は孤独が怖いのではなく、ひとから、誰かから忘れられるのが怖かったのだと、今にして思う。楽器を弾いたり、それを人前で披露したりするのは、ぼくに取っては自己顕示慾の発露ではなく、己れの存在を他者に留めたかったのではないかと思う。
 どうしてそれほど必死になっていたのだろう。まだ若いのに、自分が死んでしまって、ひとの記憶から消えてしまうことに、どうしてそんなに恐怖を覚えていたのだろう。
 実家の充実した広い家から六畳一間の、はっきり云って貧しいアパートへ移り住んだ。意味も理由もない。ただ単に、そうしたことがしたかっただけで、おぼっちゃまの気まぐれだと揶揄された。
 まったくもってその通りで、実際、働きもせず、そこに暮らして遊び呆けていたのだ。
 そんなぼくが一家を成し(やはり働きもせず、婿養子になり、主夫業すらしていないのだが)、子供まで出来てしまった。
 『せつないもの』を何度か弾いてみると、これはベースでやった方がいいかも知れないと思い立ち、誰かがくれたバイオリン型のエレキ・ベースを明良さんの書斎から取ってきた。カナちゃんは病院へ定期検診に行って留守である。何故かこの曲だけは、いつもひとりの時に唄っていた。
 ベースの太い弦をピックで弾くと、アンプを通さなくても一応響く。やはりこのゆっくりしたテンポにはベースの音の方が合う。


 カナちゃんが、腰が痛かったり手足が浮腫んだりするので、お風呂に入った時にマッサージしてあげることもあった。護さんから塩分を控えるようにと云われ、食事は薄味の和食が多くなった。ぼくもつき合って、アルコール抜きの年寄りみたいな食事を摂った。
 「アキラ君もこんなごはんばっか食べてた」と、カナちゃんは云う。
 臨月になると頭痛がするようになったので、カーテンは閉めて明良さんの為に設置された紫外線の含まれない灯りを、日中も少して落として点した。
 桜の花が散って、青々とした緑の葉が光るようになった。彼女は「大きいお腹、飽きた」と云っては笑っている。
 そして木下さんのリクエストに応えるかのように、六月の九日の夕方、ぼくが病院の待合室で眠りこけている間に赤ちゃんが産まれた。彼女の希望通り、女の子だった。
 起きてから見せてもらうと、赤い顔をして目はまだ開いておらず、とてもじゃないが可愛いとは云えない生きものである。こんなのを愛おしいと思えるだろうか、と考え込んでしまった。
 大きな部屋に、まるで箱が挟まっているように寝室があるので、その出っ張りの分だけ、居間から見ると何もなく無意味な空間だったのだが、恰度そこが赤ん坊の為のスペースにぴったりだった。最初からその為に設計されていたかのように。
 ベビーベッドの中で眠っている子供を何度見ても、可愛くないなあと思ったが、その動きを見るのは楽しい。嘘みたいに小さい指の先に、やはり小さな爪があった。
 子供の名前は「りょう」に収まった。考えたのは木下さんである。
「なんであなたの名前からとらなきゃならないんですか」と云ったら、おれの名前じゃない、と彼は答えた。
「おまえの顔と写真で見せてもらったかみさんの顔を混ぜ合わせて、なんとか別嬪さんの顔にしようとあれこれ考えたら、モデルと女優をやってたりょうと、シャーロット・ランプリングの顔が思い浮かんできたんだよ」幾らなんでもシャーロットじゃおかしいからりょうにした、と云う。護さんも彼女もそれでいいんじゃないのかな、と云うので、その名前で届け出たのだ。
 カナちゃんは眠ってしまうとよほどのことがない限り起きないので、夜中は大抵起きているぼくが子供の守りをすることになった。
 泣き出せば『せつないもの』をベースの弾き語りで唄ってやると、暫くするとおとなしくなった。作ったCharaがすごいのか、経験者がすごいのか、ベースの音が好きなのかは判らなかったが、効果は絶大である。
 調べてみると、産後には鬱になり易いと書かれてあったけれど、もともとカナちゃんは呑気な性格なのか、そういうことはなかった。夜中はぼくが娘を見ていたからかも知れない。家事などをまったくしなくていいのも一助となったのかも知れない。
 りょうは一才半くらいになると摑まり立ちが出来るようになり、言葉のようなものも喋るようになった。そして恐ろしいことに、顔が何処となく木下さんに似てきた。ぼくは一重瞼で、切れ長で大きい割には細い目をしていて、カナちゃんが二重のぱっちりした目で、どちらも細面だから、混ぜ合わせるとああいう顔立ちになるのは仕方がないかも知れない。
 言葉を話すようになると、娘はぼくのことを「おとたん」と呼ぶようになった。
 幸い女の子らしくなってきたら、目以外は木下さんに似たところはまったくなくなった。さすがにこれくらい大きくなると、可愛らしいと思えるようになってきた。
 カナちゃんは相変わらず短い髪をしていて、ぼくの髪は肩くらいに伸ばしている木下さんより少し長いくらいだった。
 本当にぼくは、ジョン・レノンのような「専業主夫」になってしまった。りょうは『せつないもの』が相当気に入っているらしく、一日に何度も唄わされた。
 ギターでも弾いてみたがベースの方が好きなようである。赤ん坊の頃のことを覚えているのだろうか。原曲を聴かせたらピアノでもやって慾しい、と云うのでキーボードを買って練習しなければならなくなった。
 演ってみると、弦楽器と違って音階が実に判りやすい構造をしているのが判った。譜面にあることがちゃんと鍵盤として横並びになっている上に、半音上がったり下がったりする時は黒鍵を押せばいいのだ。最初にやった楽器がこれだったら、とてもじゃないけれどギターなんか弾けなかっただろう。
 それから少しずつりょうが喜ぶような曲を作るようになった。なんだか護さんが云った通りの展開になってきた。こんなことでいいのだろうか。
 りょうが幼稚園に上がった時に、この大きさなら子供でも扱えるだろうと、ウクレレを買ってあげた。さすがにこの頃には父の会社の手伝いをするようになっていた。
 ウクレレというのは弦楽器の中でもかなり簡単に演奏出来るものだと思うが、彼女は半年足らずで『せつないもの』をマスターしてしまった。この曲をウクレレで弾いたりするひとはあまり居ないのではないだろうか。
 遊びでりょうが弾いたウクレレを録音して、キーボードの弾き語りで唄ったものを合わせてデータに落とし木下さんに訊かせてみたら、「すげえ、Charaとキセルとつじあやのの奇跡の合体ロボ。いや、そうじゃなくて……。まあいいや」と訳の判らないことを云って感心していた。

 大きな窓から、明良さんがサングラスなしでは見ることが出来なかった晴れ渡った青空を眺めてみる。今ではおかあさんと呼ばれるようになったカナちゃんを見たら、彼はなんと云うだろうか。
 カナも大人になったもんだなあ、と笑うのだろうか。
 彼女は今でも明良君ならこうするとか、明良君ならそんなことはしない、と云うけれど、もうそれは日常の一部になってしまっていた。

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