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アタゴオル通信、7。

 君はゲームをしていないのか。
 しています。ただ、Switchは手放しました。前にも云ったかな?
 わたしがやっているゲームと謂えば『とびだせどうぶつの森』か、スマホのジグソーパズルくらいのものである。このジグソーパズル、本当にそのまま。机に広げないだけで、やっていることは同じ。金銭的に加算されるポイントもない。
 でも、楽しい。だから毎日やる。
 しかし、絵柄に偏った好みがあるのだ。兎に角わたしは、喰い物の画像が好きで、己れで調理する訳でもないのに料理本をしこたま買い、それを眺めてうつらつく。
 だからジグソーパズルも、喰い物の写真しかやらない。なかったら、やらない。

 兎に角、未だにわたしは『とびだせどうぶつの森』をやっているのだ。『あつまれどうぶつの森』は精神を病むので本体ごと(Switchの機械ごと)、知人へ押しつけた。部屋にあるだけで精神を圧迫していたのだ。
 おかしいと思うだろう。
 わたしも思う。
 しかし、毎日の日課、やらねばならない日課、これがわたしを追い詰めたのだ。
 馬鹿かよ。
 そう思う。
 しかし、中途で止められないのがこのゲームの恐ろしさ。止めるなら二度とやらない、それが出来ないなら、譬え三十分でも毎日のルーティーンを熟す。いじめを受ける子供のように、意にそぐわない仕事を課せられた会社員のように、毎日毎日、同じことを繰り返すのだ。
 意味があるのか。
 『とびだせどうぶつの森』にも同じことが云えるのだが、この終わりなきゲームにも一応、最終目標はあるのだ。それは、
『一億円(ベル)を貯めること』
 である。
 これは本当に子供向けのゲームなのだろうか。住む家を作るためにローンを背負い、払い切ったところで先が見えず、何をすればいいのかと思えば『一億円貯めてATMを手に入れよう』だ。
 なんと謂う世知辛いゲームなのだ。いちいちお金を貯金するのに郵便局へ行くのは面倒だったけれども、自宅にATMを設置したいとは夢にも思わなかった。って謂うか、世間の誰しも思わないだろう。そんなものが自宅にあっても邪魔なだけだ。

 わたしははじめ、ひとつのソフトで遊んでいた(勿論『とびだせどうぶつの森』である)。しかし、ものが揃わないのと、なんと謂うか、閑を空かせてもうひとつの中古ソフトを買い、次の子を召喚した。
 最初の子は「えびる」と名づけた。 悪魔という意味合いはない。これは昔、わたしが名乗っていたものである。次に購入した中古ソフトは安い代物であり(わたしが購うくらいだ)、千円にも満たないほどであった。この子はエズミと名づけた。
 これは現在、わたしが名乗っているものである。双方ともカシラに『エ』とつくのは偶々で、えびるもエズミもたいした意味はない。
 その次、更にソフトを買い、「ヒロぽん」と謂う操作人を(元連れ合いに因んで)作ったが、酔っ払っての所作で、本体ごと何処かへ消えてしまった。手元に残った二期めのエズミを逡巡の末、更に戻し、記憶力がないのか粗忽なのか、新たに設たものも、村長は『えびる』となってしまった。
 気づいた時にはすでに遅く、現在わたしは「とびだせどうぶつの森」を、えびるとえびるで運営しているのだ。先輩のえびるがやってきたこれまでの営みを、一足飛びに超えることは出来ない。
 と、思うだろうが、「エズミ」を消して新たにやり直すとなると、エズミが村長として運営していた実績を金銭として還元してくれるのだ。此処のところ、よく見て考えて慾しい。
 経営が破綻した市町村を、国がすべてを負担して、再建を支援してくれるだろうか。
 ない。
 これはゲームだからとは謂え、利用者の我が儘でやり直す際にも、これまで築き上げたものをゼロにするのではなく、次へと結びつけてくれる心持ちが難有いではないか。
『とびだせどうぶつの森』は、これほどまでに心豊かな設定を施しているのだ(自分で書いていて、こそばゆいわ)。だからこそわたしは、『あつまれどうぶつの森』をやめ(と謂うか、追い詰められてやめ)、本体ごと棄てたのだ。

 機能や性能は、進めば進むほどいいと謂う訳ではない。それを喜ぶ者も居れば、着いてゆけず途方に暮れる者も居る。
 ひとそれぞれだ。
 これはもう要らないと捨て去るのは、個人の断捨離だけにしようではないか。その個人の断捨離でも勢い余って棄ててしまったものを、後でまた買い戻していたりするのだ。それも、自分が買った時より高額で。
 世の中、混沌とし過ぎている。


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