箸とフォーク。
我が家はあまり外食しなかった。
父親が好まなかったらしく、必然的にそうなった訳である。わたしが幼少時は、外食はハレのイベントで、特別な出来事の部類であった。子供たちも月曜日に学校で、「昨日うち、外食したんだよ」などと誇らしげに報告していた。何処其処で、ではなく、「外食」と表現した。当時はまだ、子供に対してでも判るような有名外食産業がそれほどなかったのだ。
外食といえば、すがきやのラーメンか、わたしと父だけの時はコーヒーとサンドイッチが売りの喫茶店、「コンパル」だった。昔の喫茶店には、妙に怪しいプラスチックの鈍い光りを放つ円く黒い物体の、機械とも云えないものがあった。お金を入れるとピーナツが出る店もあったが、わたしの記憶では、「おみくじ」の方が強く印象が残っている。
卓子上にある、砂糖壷や米の入った塩入れと並んで「おみくじ」と謂う、よく判らない組み合わせが印象的だったのだろう。
「ちゃんとした」外食と云えるのが、たまに行く百貨店の食堂だった。
その頃、その「白飯」の喰い方が、日本全国で、どうも妙なことになっていたらしい。茶碗に添えられて出てくるものは当然箸で、箸が扱えない子供はスプーンだった。
そこ迄はいい。
ひとたびそれが皿に盛られて出てくると(喩えば、ハンバーグセット。百貨店だけに、「定食」とは呼ばない)、何故だか知らぬが、ナイフとフォークが出てきた。周りを見渡すと、気取った様子で(或いはぎこちなく)フォークの背にナイフで白飯を乗せて食べている。 暗黙のマナーだったのかなんなのか知らないが、外国人が見たら、変な喰い方をするもんだ、と思ったであろう。
実際、変だったのだ。
誰がフォークの背に飯を乗っけて食べるのが「お上品だ」と云い出したのだろう。
今ではそんなことをして飯を喰っているひとなど居ない。
そうでなくても、我が家は、食の範囲が狭かった。
おでんと謂うと、中部圏内に住んで居るにも拘らず「関東炊き」で、味噌はつけなかった。名古屋式の「甘辛の八丁味噌」をかけて食べる機会は、東山動物園に行った時だけだった。その時、それを旨いと思ったのか、不味いと思ったか、記憶にない。ただ、偏食で少食なわたしが、母の握ったおむすびを三個も食べたことだけは覚えている。
中部圏内の家でも、おでんにもトンカツにも味噌は附けない。それは常識である。何故なら味噌だれを作るのが面倒臭いからだ。
そして、鍋と謂えば「魚すき」だった。鍋に肉を入れることなど、考え及びもしなかった。ただ、わたしは煮た魚が苦手だったので、母に「お魚も食べなさい」と云われて厭々鱈などを食べていた記憶がある。
名古屋から引っ越した際に買った卓子に、隠し鉄板(?)が附いていて、焼ものを時々やったが、所謂、「韓国風焼き肉」は食べたことがなかった。これらはみんな、連れ合いと行った「外食」で覚えた。
前にも書いたかも知れないが、わたしは食事で極端な味が出てくるのを好まない。すき焼きなどが夕食だった場合は、肉も喰えないうえに砂糖迄ぶち込んであるので、げんなりとした。黙々と、しらたきと葱と焼き豆腐だけを食べていたものだった(それは今も変わらないが、食事が選べるようになったので、すき焼きを食べなければならない機会もなくなった)。
このすき焼き、わたしが嫌悪するようになったのは、父が主導権を握ったその作り方に依るのかも知れない。関東では割下とやらで煮込む(?)らしいのだが、我が家では熱した鉄板に牛脂を押しつけ油を引き、牛肉を並べたところへ砂糖を容器からばっさばっさと投入し、醤油を掛け廻す。
眺めているだけで食傷する。どうもこのやり方は関西の流儀に近いらしい。目で見える形で苦手な砂糖を放り込まれ、口にしても甘じょっぱく、醤油味も濃く、しかもメインは肉である。
好きになれる要素がひとつもない。
仕方がないので焼肉の晩は、白滝や葱を生卵で味を薄め、うんざりしながら食していた。恐ろしいことに、それが週に一度あったのだ。卓子コンロ、好き過ぎだろう。大人も憧れていたものを手に入れると、傍迷惑なほどはしゃくのだと謂うことが判った。
両親とも佃煮が好きなのだが、あれはおにぎりひとつにちびっとあればこと足りる(それでも厭だ)。お節料理でも、酢のものばかり喰っていた。実はみそ汁もあまり好きではない。だが、八丁味噌を味醂で溶いたものを乗せた「田楽」は好きだった。
彼岸の墓参りの後、菜飯と田楽の店で、それらを食べるのが好きだった。母は、「ゲテ系」のものがまったく駄目で、食べなかったのだが、田螺の田楽も、硬く、こりこりでもなく、がじがじでもなく、ぐにぐにとでも云ったらいいのだろうか。その独特の歯ごたえが気に入って好きだった。
小学校の半ばくらい迄、まっさらの白飯が苦手で、おかずに手が伸びないものばかりだとのりたまをかけて、それすら切らしている時は、塩を振って喰っていた。
子供の頃は今より好き嫌いが多く、食べられるものが数えるほどしかなく、伯母に「この子は霞でも食べとるんかね」と云われたものだ。
霞を喰って生きていられるかは何うかは兎も角、粗末な食事でも生きてゆけられるのが難有い。だが、この齢になって、やっと白飯の喰い方が判ったのである。
それは簡単なことだった。先駆け、後追い、どちらでもいいが、白飯が口の中にある前後におかずを喰えば済むことだったのだ。
ああ、気づくのが遅過ぎた。
どちらかと謂うと、洋ものの飯より日本風が好きなわたしには、この「白飯が喰えなかった数十年」が、なんとも惜しい。悔しい。トンカツに添えられるキャベツの千切りの臭みがずっと苦手で、ソースでびたびたにして食べていたのだが、連れ合いに醤油をかけると臭みがとれるよと教えられて試したら、本当に臭みがとれて美味しかった。他人と接触しないで、偏った家風の作法に従って飯を喰っていたわたしの愚かさ。もともとコロッケなどには何もかけなかったのだが(中身に味がついているので)キャベツに醤油をかけるだけで、あの妙に甘青くさい臭いが消えた。なんとも不思議であった。
(2015,04,16. 某ブログにて)